十句観音経

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十句観音経』(じっくかんのんぎょう)は、仏教経典の一。別名を『延命十句観音経』(えんめい―)とも言うが、「延命」の二字を付け加えたのは江戸時代臨済宗中興の祖といわれる白隠である(後述)。

大乗経典観音経系経典に属し、わずか42文字の最も短い経典として知られる偽経だが、古来ただ何度も唱えるだけでご利益を得られるとされており、人気が高い。

全文[編集]

観世音。南無仏。 (観世音菩薩に帰依します)
与仏有因。与仏有縁。 (我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながっています)
仏法相縁[1]。常楽我浄。 (仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽しく過ごせます)
朝念観世音。暮念観世音。 (朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます)
念念従心起。念念不離心。 (この念は仏心から起こり、また心を離れません)

『十句観音経』

注:()内は口語訳

来歴[編集]

中国[編集]

『十句観音経』に関する最古の文献は、中国天台宗の祖師列伝を記録した咸淳四明東湖沙門志磐撰『仏祖統紀』(1269年)で、そこには次のような南北朝時代の記録が載せられている。

宋 (南朝)の元嘉27年(450年)、第三代皇帝文帝劉義隆は劉康祖・沈慶之らの反対を押し切って北魏へと攻め込んだ。柳元景・薛安都・龐法起らの本軍は連戦連勝して潼関を陥れたが、一方、淮北に別軍を進めた王玄謨(おうげんぼ)は、碻磝を陥れ、滑台を包囲したにもかかわらず、北魏太武帝の親征軍が大挙して渡河したため敗走に追い込まれた。そのため文帝は止むを得ず本軍を撤退するはめになった。

二十七年。王玄謨、北征し律を失い、蕭斌これを誅さんと欲す。沈慶之、諌(いさ)めて曰く「仏貍(太武帝の幼名)の威は天下を震わす。豈(あに)玄謨の能くする所ならんや。当(まさ)に戦将を殺すは徒(いたずら)に自ら弱める耳(のみ)、乃(すなわ)ち止むべし」と。初め玄謨、将(まさ)に殺されんとするに、夢に人告げて曰く「観音経を千遍誦すれば免るべし」と。仍(かさ)ねて其の経を口授して曰く、「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。既に之を覚誦し輟(や)めず。忽(たちま)ち唱うれば刑停(とどま)る。後に官、開府に至り年八十二

『仏祖統紀』巻第三十六、(原文訓み下し)

元嘉27年(450)、王玄謨は北へ攻め込んだが敗北し、蕭斌は玄謨を処刑しようとした。沈慶之は蕭斌を諌めて、「太武帝の威は天下に鳴り響いております。どうやっても玄謨ではかなわないでしょう。武将を殺すのは自国の戦力を弱くするだけです。処刑はお止めください」といった。玄謨は処刑されそうになったとき、夢の中で人から「観音経を千遍誦すれば助かるであろう」と告げられた。観音経も夢の中の人に口伝えで教えてもらった(その経文は以下の通りである)。 「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法相縁常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」と。 玄謨は常に観音経を唱えてやめようとしなかった。するとたちまち死刑執行が停止された。玄謨は官位が登り幕府を開ける(開府)までになって、八十二歳まで生きた。

同上、(口語訳)

この話は450年の事跡ということであるが、他に記載する古資料がないため信憑性は乏しく、『仏祖統紀』撰述の時代に『十句観音経』が普及していたということを示唆するのみである。

このほかに、北魏の孫敬徳が処刑されそうになったときに、同一の経文を唱えたところ、死刑執行人が刀を振り下ろしても刀が折れてしまうという霊験があったという伝説もあるが、孫が唱えたのは別の『高王観音経』であるともいい、はっきりしない。

日本[編集]

日本では、霊元天皇が最も霊験あらたかな経典を霊空和尚に探させた結果、これに行き着いたという伝説がある。しかしこの伝説は江戸時代に白隠が『延命十句観音経霊験記』に述べている以外に裏づけがないようである。白隠は上記の他いくつかの伝説を採り上げ、偽経といえどもこれだけ霊験があるのだからと、人々に唱えることを推奨し、『延命十句観音経霊験記』をあらわしたため普及した。現在も白隠の再興した臨済宗を中心に、日常の読経や写経などに用いられている。

また、本来の「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」は、短い偈文(世尊偈)部分のみでも500字を越える長大な経典であり日常の読経としては長すぎるため、代用として十句観音経を読むことも行われており、鎌田茂雄などの禅僧がそれを薦めている。

エピソード[編集]

1966年、第1次佐藤第3次改造内閣の坊秀男厚生大臣は、国会において自身の弾劾演説を受けている最中、精神を落ち着かせるために手帳に懸命に十句観音経を写経していた。このことが禅僧の松原泰道の眼に留まり、松原は後にこれを著書で取り上げた。松原の著書の推薦文は坊が書いている。

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  1. ^ しばしば「仏法僧縁」と書くことがある。

関連文献[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]