瀨底恒

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瀨底 恒(せそこ つね、1922年(大正11年)1月16日 - 2008年(平成20年)3月3日、女性)は日本の編集者。東京出身。

経歴[編集]

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1922年東京生まれ。1941年、青山学院女子専門部家政科を繰り上げ卒業後、母方の親類であった柳宗悦を頼って日本民藝館に勤務。1952年にアメリカに留学し、1955年、オクシデンタル・カレッジを卒業。1959年には南カリフォルニア大学大学院を修了した。この間、自身の論文『グリーン兄弟のデザインへの日本建築の影響』でも扱ったグリーン兄弟や、柳宗悦の海外講演で通訳などを担当しハーバート・バイヤーらに出会う。

1952年に日本に帰国。世界デザイン会議(WoDeCo)事務局次長として丹下健三浅田孝に協力。語学力を生かし、主に海外デザイナーとの交渉を勤めた。

1962年にコスモ・ピーアールに入社。多数の企業広報誌を手がけ、ユージン・スミス、クリストファー・アレグザンダーといった人物、またナショナル・トラストの思想などを日本に紹介した。1964年には竹中工務店の企業広報誌『approach』を田中一光石元泰博らと共に創刊[2]。1981年にはマツダ・カルチャー・ブック・シリーズを編集・制作。吉田光邦田中一光らと共に日本文化を積極的に海外に発信した。

1996年にコスモ・ピーアール退社。2004年には瀨底の業績について80人の友人が寄稿した書籍『瀨底恒をめぐる100人のボーイフレンド・ガールフレンド』が発起人・ケン石井、石元泰博伊藤ていじ川添登篠田桃紅松田妙子三宅一生柳宗理、世話人・内海禎子、川島瑠璃、薩摩章子、水上町子によって私家版として発行された。2008年3月3日逝去。

2011年、竹中工務店の運営するギャラリーA4にて展覧会「Thought in Japan──700通のエアメール「瀬底恒が結んだ世界と日本」」が開催。された。

編集に携わった書籍・雑誌[編集]

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企業広報誌[編集]

  • 『Age of tomorrow』(日立製作所、1961年〜)
  • 『Japan …a chapter of image』(日立製作所、ユージン・スミス、1961年)
  • 『Yawata News』(八幡製鐵、1961年〜)
  • 『approach』(竹中工務店、1964年〜)
  • 『The World of Chain Anchor』(九六産業、1975年)
  • 『P&P』(日本電気硝子、1976年)
  • 『Lifescape』(岡村製作所、1977年)
  • 『日建設計の歴史』(日建設計、1980年)
  • 「マツダ・カルチャー・ブック・シリーズ」(マツダ、1981年〜1992年)
    • 『The Wheel : A Japanese History』(1981年)
    • 『The Compact Culture : The Ethos of Japanese Life』(1982年)
    • 『The Hybid Culture : What Happened When East and West Met』(1984年)
    • 『The Culture of Anima : Supernature in Japanese Life』(1985年)
    • 『The Peoples's Culture : from Kyoto to Edo』(1986年)
    • 『Asobi : The Sensibilities at Play』(1987年)
    • 『Naorai : Communion of the Table』(1989年)
    • 『Tsukuru : Aesthetics at Work』(1981年)
    • 『Wabi Sabi Suki : The Essence of Japanese Beauty』(1993年)
  • 『NYの玉三郎』(マツダ、1984年)
  • 『Hiroshima and beyond』(マツダ、1985年)
  • 『Hiroshima with Nature』(マツダ、1986年)
  • 『Japanese Gardens』(日立製作所、1990年)

など

その他の海外広報誌[編集]

  • 『The Rice Cycle : the grain that created a culture 』(JETRO、1974年)
  • 『The I-Ro-Ha of Japan : An Alphabetical Interpretation of Japanese Concepts.』(アスペン国際デザイン会議、1979年)

など

受賞[編集]

  • 自身が創刊、編集に携わった竹中工務店の広報誌『approach』で全国PR誌コンクール最優秀賞(1965年)、ADC賞銅賞、全国ポスター・カタログ展優秀賞(1967年)、I.C.I.E最優秀賞(1969年)、全国PR誌コンクール高水準持続賞(1982年)ほか[2]

関連書籍[編集]

  • 『瀨底恒を巡る100人のボーイフレンド・ガールフレンド──戦後日本のデザイン界を支えた瀨底恒さん』(2004年)
  • 『THOUGHT IN JAPAN 700通のエアメール─瀬底恒が結んだ世界と日本─』(2011年、GALLERY A4)

脚注[編集]

  1. ^ 『THOUGHT IN JAPAN 700通のエアメール─瀬底恒が結んだ世界と日本─』GALLERY A4、2011年。 
  2. ^ a b 50年にわたって建築文化を発信してきた[approach(アプローチ)が変わります]”. https://www.takenaka.co.jp/news/2013/03/03/index.html. 2020年10月9日閲覧。
  3. ^ 『瀬底恒を巡る100人のボーイフレンド・ガールフレンド』2004年。