洲羽国造

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洲羽国造
家祖 不明
種別 不明
出身地 不明
主な根拠地 不明
凡例 / Category:日本の氏族

洲羽国造(すわのくにのみやつこ、すわこくぞう)は、偽書である『先代旧事本紀大成経』のみに名前が見える架空の国造である。

大成経や、大成経に影響を受けた書物以外に洲羽国造の存在を記したものは存在せず、那須国造の誤記とされる。

概要[編集]

表記[編集]

先代旧事本紀大成経』国造本紀に洲羽国造との記載があり、大成経に影響を受けた書物以外の資料には洲羽国造は見られない[1]

実在性 [編集]

新野直吉は、「文字表記は問わず諏訪国造は存在しなかった」と主張し、佐藤雄一は、「疑似的同族関係を築いていた科野国造のうちの1氏族であった」と結論づけた[2]

祖先[編集]

本拠[編集]

科野国の古墳造営は、4世紀前期から始まる埴科古墳群など千曲川流域の北信(科野国造の支配領域)と、5世紀後半から始まる飯田古墳群など天竜川流域の南信(高森町以南)が中心であるため、諏訪に国造が置かれた可能性は否定されている[3]

支配領域[編集]

律令制の後、信濃国から一時諏訪国が分立したことがあり、これが旧諏訪の領域とされる[4]

弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で科野の大王の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が科野の中心(科野国造)であったとされる[5]。一方諏訪地域に前方後円墳が造営されるのは下諏訪町下諏訪青塚古墳が唯一であり、この古墳は下社奉斎氏族の大祝金刺氏多氏同系)の奥津城と考えられる[注釈 1]

偽系図・「異本阿蘇系図」 [編集]

昭和31年(1956年)、田中卓は阿蘇氏の系図を求めて宮地の阿蘇家を訪ねた。阿蘇氏から提供されたのは「中田憲信所贈」と記された「異本阿蘇系図」というものであった。田中はこれを江戸中期以降に成立したものと考えたが、実際は明治期に中田憲信によって作成されたものであった。その系図の内容は、「武五百建命(健磐龍命)を祖として、一方は科野国造から諏訪大社の大祝家と繋がり、一方は阿蘇国造速瓶玉命を祖として阿蘇大宮司家に繋がるものであるが、その間には「評督」から「郡擬大領」とからに行政区分が移ったこと、「宇治」という姓を与えられたこと、「阿蘇宮司」に任ぜられていることなど、古代律令制の中の阿蘇氏の地位や阿蘇宮司の始まり、なぜ中世に大宮司家が「宇治」を称するかなどの回答が全て盛り込まれていた。

元来、阿蘇氏の系図は、『続群書類従』に収録されていた。これは、鎌倉時代における伝説上の祖・惟人から阿蘇惟光阿蘇惟善まで、惟善の子・阿蘇友貞の時代までに伝わっていた所伝を記録していた「阿蘇継図」に、神武天皇から惟人までの神系図を加えた系図が友貞の子・阿蘇友隆の時代までに成立し、貞享年間に丸山可澄が書写したものである。

しかし、『続群書類従』収録の阿蘇氏系図が成立するまでに、異本系図はとくに知られない。異本系図のように詳細な系図があれば、阿蘇氏の系図が作成される際に採用されないはずがなく、中世阿蘇文書の中にも異本系図を匂わせるような記述は見られない。この異本系の中には「中田憲信贈」・「中田憲信編」という注記が見られることが注目されるが、それは、この現存の異本系図が外部から提供されたものであったことを表す。

昭和58年(1983年)には、飯田瑞穂が「古いところで、国造→郡督→大領という肩書きの変遷を示す例がいくつか目にとまった」と述べ、「系図作成の専門家はいつの世にもあり、このやうな背景があったと考へることはさほど見当違ひではあるまい。鈴木真年など、国学者で、その世界に名を売った者もある。国造→郡督→大領という変遷は、それらの人々の知識・理解の反映であった可能性があろう」と暗に異本系図が偽系図であることを指摘するという見方がある。

また、平成8年(1996年)には、村崎真智子が異本阿蘇系図の信憑性を否定した。村崎は異本系の阿蘇系図の分類、系統によって、異本系に阿蘇系図の原点は明治初期の中田憲信本に始まることを明らかにして、また一部に類似する部分を持つ異本阿蘇系図と諏訪の「神氏系図」の関連所論について紹介している。この神氏系図とされるものは、明治17年(1884年)に諏訪大社上社の旧大祝家で見出されたというもので、『修補諏訪氏系図』の補記、武居幸重の「阿蘇氏系図一件」、宮地直一の『諏訪史』などから、村崎は諏訪大社宮司の飯田武郷が文案を作り、中田憲信が系図としたと結論づけざるを得ないとした。すなわち、異本阿蘇系図の中の阿蘇国造家・科野国造家の系図には後世の偽作があり、これに飯田と中田が関わっていたとする。

飯田と中田、それに中田と鈴木真年は、『和学総覧』を勘案すれば、国学者である平田銕胤の門下生であった。彼ら国学者にとって、郡評の歴史や関係は『新編常陸国誌』など周知の知識であった。飯田、中田、鈴木は、偽作した系図を疑う者が現れることを警戒した。そのため、偽作した系図に「国造→郡督→大領という肩書きの変遷を示す例」を注記することで、系図の信憑性が高まると考えた。実際に、異本阿蘇系図を発見した田中は、慎重に系図を検討して、さらに江戸時代末期の国学者が「」に関する知識を持っていたことをも知りながら、「全く偽作できないわけではないが、そこまで疑う必要もなかろう」と異本系図の内容を楽観的に判断した。

八代市立博物館長や熊本県文化財保護審議会会長を務めた阿蘇品保夫は、中田が利用した阿蘇氏という存在の「歴史的評価の大きさ」を強調し、阿蘇氏の系図の中で信用できるのは阿蘇惟宣以降であり、「中田らが偽作した系図程度で阿蘇氏の尊貴性は保障されるものではない」とした[6]

間枝遼太郎は、『阿蘇氏略系図』に記された阿蘇氏科野国造氏が同族であるという説や、「評督」といった役職の時代的整合性は先人たちの歴史学的検討によって既に否定されたとし、その上で『阿蘇氏略系図』が古代の歴史的事実を明らかにする力は持たない系図であると証明した[1]

脚註[編集]

注釈[編集]

  1. ^ スグモ塚古墳や二子塚古墳が前方後円墳とする説もあるが、墳丘の破壊が著しく、詳細は不明とされる。

出典[編集]

  1. ^ a b c 間枝遼太郎「大祝本『神氏系図』・『阿蘇家略系譜』再考―再構成される諏訪の伝承―」『国語国文研究』161号(北海道大学国文学会、2023年8月)
  2. ^ 佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)
  3. ^ 佐藤雄一著『シナノの国造勢力』
  4. ^ 佐藤雄一著『シナノの国造勢力』
  5. ^ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』 2003年 43ページ
  6. ^ 阿蘇品保夫『阿蘇社と大宮司―中世の阿蘇(自然と文化阿蘇選書 2)』(熊本日日新聞社、1999年)