横瀬景繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
横瀬景繁
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 永正17年2月20日1520年3月9日
または大永2年2月20日1522年3月17日
改名 新六郎(幼名)、景繁、宗功(号)
戒名 白豪寺大栄宗功居士
官位 左衛門佐信濃守
主君 岩松昌純
氏族 横瀬氏
父母 横瀬成繁(異説あり)
兄弟 景繁繁通
泰繁泉基繁勝繁長尾憲長室、
大胡茂政
テンプレートを表示

横瀬 景繁(よこせ かげしげ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将横瀬氏6代当主。岩松氏の重臣で筆頭家老。

生涯[編集]

横瀬成繁の子として誕生。父・成繁の死に伴い横瀬氏の家督を継ぐ。

長享元年(1487年)からの長享の乱では山内上杉家方に属し、永正元年(1504年)の武蔵国立河原の戦いでは岩松昌純の名代として出陣している。その後も山内上杉家の内紛(永正の乱)に介入し、上杉憲房長尾景長について上杉顕実長尾顕方成田顕泰と戦うなどして、次第に主家を圧倒する存在となっていった。永正11年(1514年)には上洛し、室町幕府10代将軍足利義稙に謁見している。この横瀬氏と足利長尾氏の強力な連携は、後に長尾顕長[1]誕生の布石となったと考えられている。後に出家して宗功と称した。

没年月日には永正17年(1520年)2月20日説と大永2年(1522年)2月20日説がある。跡を嫡男・泰繁が継いだ。

大永3年(1523年)12月、武蔵須賀合戦で戦死し、子・国経が継いだとする記録もある[2]。ただし『群馬県史 通史編3』による「由良文書」の考証によると、由良家の伝承に誤りがあり、須賀合戦の時期は康正元年(1455年)、戦死したのは貞国だといい、国経の経歴などは景繁のものだとされる。またこのような経歴の錯誤から国経を景繁の別名とみなす場合もある。

脚注[編集]

  1. ^ 景繁の曾孫で足利長尾氏の婿として相続。
  2. ^ 『由良文書』[要文献特定詳細情報]

出典[編集]

  • 群馬県史編さん委員会編 『群馬県史 通史編3』群馬県、1989年
  • 太田市教育委員会編 『金山城と由良氏』太田市教育委員会、1996年
  • 黒田基樹「由良氏の研究」『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1997年)ISBN 4-8305-1192-3
  • 高橋浩昭「横瀬景繁」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2