来福丸

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StateLibQld 1 169107 Raifuku Maru (ship).jpg
船歴
建造所 川崎造船所(兵庫)
起工 1918年10月7日[1]
進水 1918年10月30日[1]
竣工 1918年11月5日[1]
喪失 1925年4月21日[2]
性能諸元
総トン数 5,857トン[3]
純トン数 4,259トン[3]
載貨重量 9081.90トン(夏期)
8822.60トン(冬季)[1]
排水量
登録長 117.35m(385ft[3]
型幅 15.54m(51ft)[3]
登録深 10.97m(36ft)[3]
喫水
機関 三連成レシプロ機関 1基1軸[3]
出力 2,400馬力(定格)[4]
速力 10.5ノット(航海)[4]
乗員 38人(最終時実数)[2]
乗客
呼出符号 RFBQ
同型船 第一大福丸型74隻[4]

来福丸(らいふくまる、旧字体:來福丸)は、川崎造船所1918年(大正7年)に当時の世界最短記録となる30日間で建造した貨物船である。主に国際汽船により運航されたが、1925年(大正14年)4月21日カナダ沖で悪天候のため転覆沈没した。地点の異なるバミューダトライアングルでの行方不明船として紹介されることがある。

建造[編集]

「来福丸」は、川崎造船所が第一次世界大戦期の1916年(大正5年)から1921年(大正10年)にかけて75隻を量産した第一大福丸型貨物船の1隻である[4]。当時の川崎造船所は、大戦による膨大な船舶需要に対応するため、5000総トン・9000載貨重量トン級の標準船型として第一大福丸型を設計。ストックボート(造船所保有の在庫。仕込船・仕入船とも)扱いで大量建造して、イギリスアメリカ合衆国へ輸出していた。第一大福丸型は大量生産による費用と工期の圧縮を重視したシンプルな設計で、載貨重量が比較的多いのが特色という程度の低性能船だった。それでも川崎造船所の主力製品として巨額の売り上げをもたらし、社長の松方幸次郎が美術品松方コレクションを築く財源となった[5]

進水まで50日間から70日間程度の短期間で建造された第一大福丸型の中でも、「来福丸」は短期建造の新記録を狙って、特に急速な工事が進められた船だった[6]。1918年(大正7年)10月7日に川崎造船所の神戸工場で起工すると、500人以上の工員を投入して昼夜兼行の作業が行われ、23日間で船体が完成して10月30日午前6時には進水式にこぎつけた[6]艤装も6日間で完了し、30日目の11月5日には無事に試運転を終えている[1]。船台の横にリベットや鋼板などの資材を並べる徹底した準備に基づく作業であった[7]。「来福丸」以前の船舶の短期建造記録としては、ベスレヘム造船が同年7月4日に起工して8月4日に進水させた「インヴィンシブル」(12000載貨重量トン級)が32日目の進水で世界最速であったのを、「来福丸」の記録は一挙に塗り替えた。両船の大きさの違いを考慮しても、なお「来福丸」の建造速度が上回っている[1]

運用[編集]

竣工した「来福丸」は、ストックボートとして川崎造船所船舶部の持ち船になった。輸出を主眼に大量建造された第一大福丸型であったが、第一次世界大戦の終結もあってさばききれなかった。20隻余りの輸出船を除いた残りの多くは1919年(大正8年)4月に設立の川崎汽船[4]、さらに同年7月に日本政府の援助で設立の国際汽船へと順次現物出資され[8]、「来福丸」も1920年(大正9年)には国際汽船が船主に変わった[3]。受注の積荷が少なく係留状態で過ごすこともしばしばあり[9][10]、戦時急造型で性能の割に船価の高い第一大福丸型は国際汽船の経営を圧迫した[4]

1923年(大正12年)頃には、日本とヨーロッパを結ぶ航路に就航した。1924年(大正14年)大連で大豆を積んオランダのロッテルダムに揚げ、さらに南米で小麦を積んで地中海のシチリア島ミラッツオに入港した。当地では開港以来最初の一万トン級の巨船であったため、市長をはじめ市民の大歓迎をうけ、また、船長は市の有力者を招待して、甲板上でダンスパーティを催したという。1925年(大正14年)春には、国際汽船は日本からパナマ運河を抜けてニューヨークフィラデルフィアボストンを経由してハンブルクに向かう貨物便を、2週間に1便発航の定期航路として運航しており、「来福丸」もこの航路に就航していた[11]

沈没事故[編集]

「来福丸」の最後の航海となったのは、1925年4月のボストンからハンブルクへ向かう行程であった。 船長井関彦太(三井物産船舶部船長から転職)以下三十七名が乗り組み、1924年(大正13年)9月8日、若松を出帆し、パナマ運河を経由して欧州に向かい、以後大西洋方面の諸港間を航海していた。翌年4月19日(18日午後?)、小麦七千四百トンをばら積みして、ボストンを出港し、ドイツのハンブルク港へ向け航海中、21日午前5時50分、ノバスコシア州ハリファックスの南南東二百海里、北緯41度32分 西経61度41分 / 北緯41.533度 西経61.683度 / 41.533; -61.683付近で「暴風雨のため救命艇全部破壊された。船体の傾斜三十度になり、航行不能。至急救命乞う」との遭難通信を発信、風力9の時化だった[12]。「来福丸」が無線電信で打った遭難信号は、21日午前5時47分にイギリス客船「ホメリック」(en, ホワイト・スター・ライン:34000総トン)により受信された[12]。現場に向かった「ホメリック」は、午前10時54分に「来福丸」を視認したが、すでに60度に大傾斜して転覆寸前の状態であった[13]。「ホメリック」が写真撮影しながら見守る中、午前11時55分に「来福丸」はカナダ沖の大西洋北緯41度43分 西経61度39分 / 北緯41.717度 西経61.650度 / 41.717; -61.650の地点で転覆沈没した[2]。「ホメリック」は救命ボートを降ろすことはせず、12時3分に現場を去った[12]カナダ海軍艦艇など数隻も救助に出動したが、生存者も遺留物も発見できず[14]、「来福丸」の乗員38人は全員死亡した[2]。国際汽船会社は22日、来福丸遭難の報を受けると、直ちに乗組員の安否をニューヨーク出張所に照会するとともに、Kライン所属船一隻を遭難現場へ急派することにした。幸いボストン港には入港したばかりの同型の社船の 坡土蘭丸(ぽーとらんまる)がいたので、炭水を、補給し、ニューヨーク駐在員を乗せて、23日出港させた。一方、ニューヨーク出張所はカナダ総領事館を通して、カナダ政府に救援を要請し、これには海事部および漁業管理局の救助船(政府船Arleuxほか)をハリファックスから出港させて、捜索にあたらせた。

「ホメリック」が救命ボートを降ろさなかったことについて、日本の海事関係者などから最善を尽くさなかったとして激しい非難が向けられた。十数名の乗員が転覆後も船体にしがみついていたのに、白人が含まれていなかったため見殺しにしたとも報じられた[14]。当時の『ニューヨーク・タイムズ』は、「ホメリック」の乗客の間でも救助活動が十分であったか見解が割れていることを報じている[15]

日本海員組合と海員協会は抗議の演説会を開催し、5月に開かれた国際労働機関の第7回総会へも、救助活動での人種差別撤廃などを求める緊急議題を労働者代表を通じて提出した。ただ、国際労働機関への議題提出期限が過ぎていたこと、日本政府代表がイギリスとの外交関係悪化を懸念したこと、内示を受けたイギリス代表団が激しく反発したことなどから、正式議題に取り上げられることは無かった[16]

当時の現地報道姿勢は「ホメリック」所属が「タイタニック_」の企業で、そこにバッシング寄り、冷ややかだった。やや中立欠く報道が日本に伝わり巻き起こったものは激昂した感情論で、古くはノルマントン号事件から日本は度々、不平等条約、人種差別問題の辛酸を味わった経験から一般世論も過敏であり、報道媒体(新聞など)と同調した行動だった。 「ホメリック」は救難信号傍受後に荒天の中約5時間、多数の乗客を乗せたまま救助に向かった行動は徒労に終わり不幸な影を齎したがシーマンシップを象徴した行為に非難は値しない。

本船の沈没は、上記のように最期の姿まで確認された事故である。ところが、まったく地点の異なるバミューダトライアングルでの行方不明船として紹介されることがある。例えばノンフィクション作家のリチャード・ワイナーen)の著書では、1925年1月にパナマ運河を抜けてニューヨークへ向かう途中、バハマ近海で「短剣のような危険が迫っている。早く来てくれ。」との意味不明の救難無線発信後に消息不明となった旨が述べられている[17]

荷崩れと浸水により傾斜した「来福丸」から発せられたモールス信号による打電の一部“danger like a dagger now come quick"「短剣(匕首、短刀又はナイフ)のような危険が迫っている。早く来てくれ。」この中似た二つの単語でモールス信号は、danger(危険)「-・・・--・・・-・」、dagger(短剣)「-・・・---・--・・・-・」、送信内容について送信トラブルで途切れ途切れの通信だった可能性も否定できず、「ホメリック」現場到着時の午前10時54分頃の状況報告「風向北東、風速22メートル、波高約8メートル、時々霙(みぞれ)をまじえ、視界は暗い。」荒天に多少の緩急あれ断末魔にある「来福丸」の通信士が困難の中、無線通信打電で起こった、なんらかの送信ミスを想像するに難くない。

来福丸遭難を報道した『ニューヨーク・タイムズ』などの記録から正確性に乏しいモールス信号の無電通信文一部だけ引用しオカルトに仕立て、安易な転載を繰り返してきたミステリー紹介書やメディアによる虚偽が転じて一つの失踪伝説と化し、事故報道や海難文献と照らし合わせこの虚構元凶を指摘し、検証や説明すら長年省みられなかった事自体が謎、不可思議に値する。

事故要因として建造最短記録樹立、イッシャーウッド構造、オーニングデッカー型量産船の一隻で欠陥船が疑われたが積付け、積載重量が適正だった前提で、救難信号発信から沈没まで比較的長時間だった事、のちに老朽化した同型船大半が第二次世界大戦下迄運用された事から主要因とは考えにくい。二次災害が懸念され「ホメリック」が救命ボート降すことを躊躇い(救命ボート以外のあらゆる救助手段を講じたことは想像に難くない。「見殺し」ではなく救えず「見守るしかなかった」忸怩は察するに余る。)「来福丸」が予想される悪天候に備えバラストタンクに余裕を持たせた積付けを超える急激な重心移動、すなわちばら積みされた小麦の荷崩れを催し船体の平衡復元作業が追いつかない程の激しい荒天が原因の大半と思われる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 天野(1951年8月)、98頁。
  2. ^ a b c d 天野(1951年10月)、64頁。
  3. ^ a b c d e f g 逓信省管船局(編) 『大正九年 日本船名録』 帝国海事協会、1920年、登簿船汽船112丁。
  4. ^ a b c d e f 岩重(2011年)、30頁。
  5. ^ 三輪(2007年)、91頁。
  6. ^ a b 三輪(2007年)、88頁。
  7. ^ 三輪(2007年)、90頁。
  8. ^ 岩重(2011年)、26頁。
  9. ^ 大船消化の真相」『大阪朝日新聞』 1919年11月11日
  10. ^ 船主自営放棄傾向―橋本汽船は繋船策」『大阪朝日新聞』 1921年2月23日
  11. ^ 天野(1951年10月)、65頁。
  12. ^ a b c 天野(1951年10月)、66頁。
  13. ^ 天野(1951年8月)、99頁。
  14. ^ a b 天野(1951年10月)、67頁。
  15. ^ Passengers differ on Homeric effort to aid sinking shipNew York Times, 1923-04-25
  16. ^ 外務省 『第七回国際労働総会特別報告書』 外務省、1926年3月、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.B10070122600
  17. ^ リチャード・ワイナー(著)・青木栄一(訳) 『魔のバミューダ海域』 二見書房〈サラダブックス〉、1980年、110頁。

参考文献[編集]

  • 天野蛇太郎「対米船舶提供及び船鉄交換の思出―附:仕入船モデル・シップ来福丸の最後」、『海運』通号287号、日本海運集会所、1951年8月
  • 天野蛇太郎「来福丸覆没余聞」、『海運』通号289号、日本海運集会所、1951年10月
  • 岩重多四郎 『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』 大日本絵画、2011年
  • 三輪祐児 『海の墓標―戦時下に失われた日本の商船』 展望社、2007年
  • 渡辺加藤一 『海難史話:大西洋で転覆した来福丸(P155~157)』 海文堂、1979年11月ISBN-10 4303634522
  • ローレンス・D・クシュ/福島正実 『魔の三角海域―その伝説の謎を解く―「来福丸」の項目』 角川文庫、1975年
  • スパッド・ラスコーhttp://www.coastalradio.org.uk/spud/spud/spud06.pdf訳:ひろ・はやし  『“JRF”来福丸の無線通信 月刊CQ hum radio 2012年11月号』 CQ出版社 。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]