李容発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 容発(り ようはつ、Lǐ Róngfā1847年 - 1864年?)は、太平天国の指導者の一人。

湖北省武昌府出身で1853年に太平天国軍が武昌を攻略した際に李秀成の養子となったという説と、李秀成の実子という説がある。1860年、「天朝九門御林忠義宿営軍忠二殿下」に封ぜられた。1861年陸順徳に従って浙江省紹興に進攻し功績を立てた。1862年譚紹光らとともに奉賢南匯川沙庁を攻撃し、上海に迫った。1863年には李秀成に従って安徽省を転戦した。1864年3月、林彩新らとともに常州から東進し、江陰チャールズ・ゴードン率いる常勝軍を大いに破った。7月に天京が陥落すると黄文金らとともに幼天王洪天貴福を守り、江西省方面に逃れたがその後は不明。一説には9月に徽州左宗棠率いる軍に捕らえられたという。

参考文献[編集]

  • 羅爾綱『太平天国史』、中華書局
  • 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』、中国社会科学出版社
  • 『中国歴史大辞典・清史(下)』、上海辞書出版社