本多忠英

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本多忠英
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年(1647年
死没 享保3年6月24日1718年7月21日
改名 政貞(初名)、忠英
別名 才兵衛(通称
戒名 霊雲院殿前肥州宰吏乾山元享大居士
墓所 東京都台東区北上野の燈明寺
官位 従五位下肥前守肥後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
大和郡山新田藩主→播磨山崎藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 本多政勝服部小右衛門の娘
養父本多政信
兄弟 勝行政利忠英
正室本多忠統の娘
継室南部重信の次女・七姫
加藤典助娘、小池三平娘、錦織八郎太夫
忠良忠方忠辰忠強花房職勝正室
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本多 忠英(ほんだ ただひで)は、江戸時代前期から中期にかけての大名大和国郡山新田藩の第2代藩主、のち播磨国山崎藩初代藩主。政信系本多家2代。郡山藩主・本多政勝の3男。初名は政貞

生涯[編集]

寛文2年(1662年)、嗣子がなかった本多政信の養子となって家督を継ぐ。延宝7年(1679年)、郡山新田藩から新たに播磨山崎藩1万石に移された。このときにも政貞から忠英に改名する。天和2年(1682年)からは宗家で姫路藩主となった同族の本多忠国の補佐に務め、宝永元年(1704年)に忠国が死去して本多忠孝が跡を継ぐと、姫路本多家は忠孝が幼少であるということから越後村上藩に移された。そして、忠孝が宝永6年(1709年)に早世し、嗣子がなかったため、忠英の長男・忠良がその養嗣子となって村上藩主となった。

藩政においては質素倹約に努めた。さらに忠英自身が茶、絵、華道に長けた教養人であったことから、狩野常信片岡醇徳らを招聘して文化的発展に尽力した。しかし宝永元年(1704年)に城下町の大半が焼失して窮民が一気に増大し、それによって藩政は不安定化した。

享保3年(1718年)6月24日、72歳で死去した。次男の忠方が跡を継いだ。

系譜[編集]