日向正宗

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日向正宗
日向正宗:
指定情報
種別 国宝
名称 短刀 無銘正宗(名物日向正宗)
基本情報
種類 短刀
時代 鎌倉時代
刀工 正宗
全長 34.25 cm[1]
刃長 24.7 cm
元幅 2.2 cm
所蔵 三井記念美術館東京都中央区
所有 三井文庫
備考 長さは24.8 cmとされる場合もある[2]

日向正宗(ひゅうがまさむね)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀短刀)。日本国宝に指定されている。東京都中央区日本橋室町にある三井記念美術館が所蔵する[3]。また、後述の経緯から大垣正宗とも呼ばれる[4]

概要[編集]

刀工・正宗について[編集]

鎌倉時代の刀工である正宗によって作られた短刀である。正宗は相模国鎌倉で活動していた刀工であり、同じく国宝である亀甲貞宗などの作品で知られる貞宗は正宗の弟子もしくは実子とされている[5]

堅田正宗から大垣正宗へ[編集]

元々近江堅田に2万石を領していた堅田広澄が所持していたことから堅田正宗と呼ばれていた[6]。後に広澄より石田三成へ贈られ、さらに三成から妹婿にあたる福原長堯へ贈られた[6]。長堯は関ヶ原の戦いでは大垣城の守備大将を担当し城を堅守していたが、長堯が属する西軍が敗戦したという一報が大垣城に届くと味方の離脱が相次ぎ、次第に戦況が悪化した。そこで、城を攻めていた東軍の水野勝成より、勝成の父である忠重を殺した加賀井重望の子供の引き渡しことを条件に長堯の助命が提案された[6]。長堯はこれに同意して大垣城を開城し、その際に本作も勝成の手に渡ったことから大垣正宗と呼ばれるようになる[4]。なお、長堯は出家して伊勢朝熊山で僧侶として過ごすこととなり、勝成は約束通り長堯の助命を家康に願い出たが、長堯が東軍の他の武将から恨みを買っていたことから、ついに自害を強要された[6]

日向正宗として伝来[編集]

勝成の手に渡った本作は、後に借金のカタとして紀州徳川家の許へ渡った[6]。1652年(承応2年)12月に徳川頼宣は嫡男である光貞へ本作を贈った[7]。紀州徳川家では勝成の武家官位が日向守であったことから、本作を日向正宗と名付けて代々受け継いでいた[7]。明治維新以降も同家へ伝来していたが、1927年(昭和2年)に競売に出され、2,678円で三井男爵家が落札した[7][注釈 1]。1941年(昭和16年)7月3日には当時の国宝保存法に基づく旧国宝に指定され、文化財保護法施行後の1952年(昭和27年)11月22日には同法に基づく国宝(新国宝)に指定された[9][10]。指定名称は「短刀 無銘正宗(名物日向正宗)」[注釈 2][10]。その後、公益財団法人三井文庫の所有となり、三井記念美術館に保管されている[9]

作風[編集]

刀身[編集]

刃長(はちょう、刃部分の長さ)は24.7センチメートル、元幅(もとはば、刃から棟まで直線の長さ)2.2センチメートル、(なかご、柄に収まる手に持つ部分)長9.4センチメートル[9]。 造込(つくりこみ)[用語 1]は平造(ひらつくり、鎬を作らない平坦な形状のもの)、三ツ棟(片刃の武器の棟〈背にあたる部分〉の断面形状が台形になるもの)。反りは無反り、もしくは、わずかに内反り(文献により異なる)[注釈 3][12][13][14]。指裏(さしうら)[注釈 4]には、護摩箸(ごまばし、刀身彫りの一種で平行する短い溝2本を彫ったもの)が彫られているが、これは本阿弥光徳の好みで彫り加えられたものとされている[9]

鍛え[用語 2]は小板目(こいため、板材の表面のような文様のうち細かく詰まったもの)肌がよく詰み、地沸(じにえ、平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)厚くつき、地景(ちけい、沸が地鉄の鍛え目に沿って連なって黒っぽく光るもの)入り、湯走り(平地に地沸が凝縮して白っぽく見えるもの)かかる。

刃文(はもん)[用語 3]は大模様で、湾れ(のたれ)主体に互の目(ぐのめ)をまじえ、箱形や耳形の刃文がまじる。荒めの沸(にえ)が輝き、刃中に金筋(きんすじ、地景と同様のものが刃中に見えるもの)に稲妻(金筋が屈曲したもの)しきりに入る。帽子(ぼうし、切先部分の刃文)は乱れ込み、丸めに返り、長く焼き下げる(帽子については「地蔵ごころ」とする文献もある)[12][14]

茎は生ぶで無銘。鑢目(やすりめ)は勝手下がり。茎尻は浅い剣形となる[14]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日向正宗の落札額について、日本銀行のHPに掲載されている企業物価戦前基準指数を用いて計算すると落札当時(昭和2年)の1円の価値は605円(平成17年時点)であるため、現代の物価で換算すると1,620,190円となる[8]
  2. ^ 官報告示の指定名称は半改行を含み「短刀無銘正宗(名物日向正宗)
    」と表記される(原文は縦書き)。
  3. ^ 日本刀用語で単に「反り」といえば「外反り」を指す。短刀の場合は無反りや、わずかに内反りになるものもある。本短刀については、文献により「内反り」(『日本の国宝』)、「わずかに反り、先内反り」(『正宗』)、「無反り」(『名物刀剣』)と記載されている。
  4. ^ 刀を、刃を上、棟を下に向けて左腰に差した場合、外側になる面が「指表」、内側になる面が「指裏」である。

用語解説[編集]

  • 作風節のカッコ内解説および用語解説については、個別の出典が無い限り、刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』に準拠する。
  1. ^ 「造込」は、刃の付け方や刀身の断面形状の違いなど形状の区分けのことを指す[11]
  2. ^ 「鍛え」は、別名で地鉄や地肌とも呼ばれており、刃の濃いグレーや薄いグレーが折り重なって見えてる文様のことである[15]。これらの文様は原料の鉄を折り返しては延ばすのを繰り返す鍛錬を経て、鍛着した面が線となって刀身表面に現れるものであり、1つの刀に様々な文様(肌)が現れる中で、最も強く出ている文様を指している[15]
  3. ^ 「刃文」は、赤く焼けた刀身を水で焼き入れを行った際に、急冷することであられる刃部分の白い模様である[16]。焼き入れ時に焼付土を刀身につけるが、地鉄部分と刃部分の焼付土の厚みが異なるので急冷時に温度差が生じることで鉄の組織が変化して発生する[16]。この焼付土の付け方によって刃文が変化するため、流派や刀工の特徴がよく表れる[16]

出典[編集]

  1. ^ 本間順治; 佐藤貫一『日本刀大鑑 古刀篇1【図版】』大塚巧藝社、1966年、252頁。 NCID BA38019082 
  2. ^ 「出品解説 国宝 二四 短刀 無銘正宗(名物日向正宗)」『W・A・コンプトン博士 日本刀コレクション特別展目録』日本美術刀剣保存協会、1970年9月8日。 
  3. ^ 小和田 2015, p. 188-189.
  4. ^ a b 刀剣春秋編集部(監修)『日本刀を嗜む』75頁、ナツメ社、2016年。
  5. ^ 東京国立博物館所蔵『刀 無銘貞宗(名物亀甲貞宗)』 - e国宝 2019年12月28日閲覧
  6. ^ a b c d e 福永 1993, p. 256.
  7. ^ a b c 福永 1993, p. 257.
  8. ^ 昭和2年の貨幣価値について - レファレンス協同データベース 2019年12月30日閲覧
  9. ^ a b c d 短刀〈無銘正宗(名物日向正宗)/〉 - 文化遺産データベース 2019年12月19日閲覧
  10. ^ a b 文化庁 2000, p. 92.
  11. ^ 刀剣春秋編集部 2016, p. 165.
  12. ^ a b 小林暉昌「短刀 無銘正宗 (名物日向正宗)」『日本の国宝 東京/五島美術館 大東急記念文庫 三井文庫』、週刊朝日百科第092巻、朝日新聞社、59頁、1998年11月29日。 NCID BA43224262 
  13. ^ 佐野美術館、徳川美術館、富山県水墨美術館、根津美術館『正宗 日本刀の天才とその系譜』佐野美術館、2002年、159頁。ISBN 4-915857-54-9 
  14. ^ a b c 佐野美術館、徳川美術館、富山県水墨美術館、根津美術館『名物刀剣 宝物の日本刀』佐野美術館、2011年、100頁。ISBN 978-4-915857-79-9 
  15. ^ a b 刀剣春秋編集部 2016, p. 174.
  16. ^ a b c 刀剣春秋編集部 2016, p. 176.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • さゝのつゆ - 備後貝三原正真作。三成が関ヶ原の戦いで佩用していた刀として知られる。
  • 石田正宗 - 正宗作の打刀。同じく三成がかつて所持しており、東京国立博物館に所蔵されている。

外部リンク[編集]