日の出 (雑誌)

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日の出(ひので)は、新潮社が発行した大衆雑誌。1932年(昭和7年)創刊。1945年(昭和20年)12月に廃刊。

歴史[編集]

新潮社では文学投稿雑誌『文章倶楽部』、それに代わって『新潮』を大衆的にしたような『文学時代』を1929年から刊行していた。さらにこれに替えて、講談社の大衆雑誌『キング』の大成功に倣い、経営の向上のために同様の雑誌発行を目論んだ。新潮社の顧問をしていた加藤武雄が、『キング』創刊に携わっていた編集者広瀬照太郎と西文夫を引き抜き、1932年8月に創刊号を発行。牧逸馬吉川英治中村武羅夫などの連載小説を掲載。しかし創刊号は30万部刷って半分が返品という状況だった。

当初は『キング』に対抗するために付録を付けていたが(33年10月号の「世界に輝く日本の偉さはここだ」など)、これにより赤字が累積し、2年後に付録を廃止したが発行部数は落ちなかった。1934年には、1931年に新潮社に入社して『日本文学大辞典』の編集に携わっていて、のちに直木賞作家となる和田芳恵が編集部に入る(1941年に退社)。

1935年には角田喜久雄の持ち込み原稿「妖棋伝」を連載、角田は一躍流行作家となった。1935年に牧逸馬(=長谷川海太郎)「都会の怪異 七時〇三分」を掲載予定だったが、原稿の途中で牧は急死し、残り部分はあらかじめ筋を聞いていた和田芳恵が残りを書き足して掲載された。また長谷川伸にはかつて頼んだ原稿を返したことから関係が悪くなっていたが、和田が牧の葬式で骨折りをしたことを新妻莞から聞いていたことで、短編「旅鴉苫の蒲団」の原稿をもらい、以後も執筆するようになった。

1936年は海音寺潮五郎直木賞受賞作「武道伝来記」を掲載、また山岡荘八「男の恋」掲載、続いて「浅草の雨」も好評だったため、「陸の波止場」連載となった。山岡の紹介で梶野悳三の「俺は水兵」などを掲載。1937年に久米正雄芥川龍之介の自殺に触れるものを書く予定だったが、どうしても書けず、山岡が代わりに「折鶴」を書いて久米名義で掲載した。また1937年からは純文学作家の作品を毎号載せることになり、新年号では尾崎士郎「吹雪の朝」を載せた。5月号では藤沢桓夫「佯わらぬ女」、6月号では武田麟太郎「葉桜」。林芙美子もかつて「放浪記」の原稿を新潮社に持ち込んで返されて以来書いてなかったが、説得して9月号に「大阪の雁」を掲載。林は、若い人向けの「青春叢書」の企画を提案し、これを1940年に新潮社で実現して石坂洋次郎などが執筆したが、陸軍情報局鈴木少佐がこれの新聞広告を見て怒り、叢書は中止となった。

浪曲の作詞をしていた正岡容小島政二郎の弟子になって小説を書こうとしていたが、1940年に古川緑波公演予定の「圓太郎馬車」を掲載した。1940年には時局を反映して、獅子文六「虹の工場」、竹田敏彦「若い未亡人」などが連載された。

埋草記事の常連には高橋鉄永見七郎大久保康雄、八幡良一などがいた。八幡が柔道の石黒敬七について書いた「欧州武勇伝」に登場する怪力のエジプト人を、名前を忘れて思いつきでアブダラ・ハンデーと書いたが、後にこれが本当の名前のように流布された。八幡はその後編集部に入り、1941年に退社して日本放送出版協会に移籍した。

新潮社では、1945年(昭和20年)11月に『新潮』を復刊し、入れ替わるように12月に『日の出』は廃刊となる。かつて『日の出』編集者だった和田芳恵は1947年に中間小説誌の嚆矢と言われる『日本小説』を創刊し、新潮社でも同年に『小説新潮』を創刊した。

連載小説[編集]

参考文献[編集]

  • 高見順『昭和文学盛衰史』講談社 1965年
  • 尾崎秀樹『大衆文学論』勁草書房 1965年
  • 尾崎秀樹、宗武朝子『雑誌の時代 その興亡のドラマ』主婦の友社 1979年
  • 和田芳恵『一つの文壇史』講談社 2008年
  • 大村彦次郎『時代小説盛衰史』筑摩書房 2012年