岩下家一

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岩下家一
支配人を務めた長春ヤマトホテル(現・春誼賓館)

岩下 家一(いわした かいち、1879年明治12年〉10月18日[1] - 1963年昭和38年〉12月6日[1][2])は、日本のホテル経営者、華族子爵)。祖父は薩摩藩出身の明治の政治家岩下方平

略歴[編集]

岩倉使節団に参加し、のちに軍人となった岩下長十郎の息子として生まれるが、幼くして父を亡くす。学習院中等科では、志賀直哉有島生馬らと同窓[3]。学習院高等科を1年で中退[4]1900年(明治33年)9月29日、祖父の死去に伴い子爵を襲爵[1][5]

1905年(明治38年)東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業[2]スイスローザンヌにホテル経営を学ぶため留学。有島生馬は、スイスの岩下を訪ねたときのことを小説『獣人』に描いている[6]

その後長春ヤマトホテル支配人を務めた。1913年(大正2年)経営方針に不満を抱いていた岩下は上層部に経営改善策を拒絶され辞職を決意、辞表を提出した。後に岩下は丸ノ内ホテルの設立に参画するなど日本のホテル業界に大きな足跡を残した[7]

1926年(昭和元年)逗子なぎさホテルを設立。1936年(昭和11年)には同窓で遠縁の土屋計左右にホテル業の創業を進言し、第一ホテルを設立させた[8]1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[9][10]研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

家族[編集]

エピソード[編集]

  • ボート競技にも造詣が深く、1940年(昭和15年)、戸田漕艇場オープン時に行われた漕ぎ初めのデモンストレーションに選ばれて出漕している[16]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、219頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』36-37頁。
  3. ^ 『新薩摩学風土と人間』 鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003
  4. ^ 里見弴・詳細年譜 小谷野敦HP
  5. ^ 『官報』第5176号、明治33年10月1日。
  6. ^ 宮越勉「初期「白樺」の有島生馬と里見弴」『明治大学人文科学研究所紀要』第59巻、明治大学人文科学研究所、2006年3月、181-214頁、ISSN 05433894NAID 120001440265 
  7. ^ 私を訪ねて来てくれた人は、同窓の先輩岩下家一さんであった 第474回 山口由美「第一ホテル東京」
  8. ^ 鶴田雅昭「小林一三とホテル事業 : 小林一三のホテル経営とその後継者」『大阪大学経済学』第64巻第2号、大阪大学経済学会、2014年9月、32-44頁、doi:10.18910/57128ISSN 0473-4548NAID 120005764169 
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、56頁。
  10. ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
  11. ^ 留学生 岩下長十郎 Satsuma1867
  12. ^ 西肥前陶磁器と商人活動 -伊万里津における商業活動を中心として 石川和男、専修大学社会科学研究所 月報 No.686・687 2020年8月・9月合併
  13. ^ 社会科学研究所 2019年度春季実態調査 北九州・佐賀の急加速と蝸牛の如き産業変化 ―北九州~久留米~武雄~伊万里~有田― 行程記録 樋口博美、専修大学社会科学研究所 月報 No.686・687 2020年8月・9月合併
  14. ^ 犬塚 きぬ イギリス・フランスで絵画修行した明治期の卒業生 女子美術大学歴史資料室ニューズレター「テクネマクラ」3号、2012年1月10日
  15. ^ 『父と娘の満州―満鉄理事犬塚信太郎の生涯』小川薫 新風舎 2006
  16. ^ 漕ぎ初め式、古希艇や還暦艇も出場『東京日日新聞』(昭和15年11月1日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p549 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

参考文献[編集]

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連人物[編集]

  • 犬丸徹三 - ヤマトホテル支配人時代の部下。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本の爵位
先代
岩下方平
子爵
岩下(方平)家第2代
1900年 - 1947年
次代
華族制度廃止