奥貫賢一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥貫 賢一(おくぬき けんいち、1906年9月20日[1] - 2002年2月22日[2])は、日本官僚行田市長。旧姓・清水[3]

経歴[編集]

埼玉県出身。1924年埼玉県立熊谷中学校卒業。1927年第三高等学校卒業[4]1930年東京帝国大学法学部仏法科卒業[1]朝鮮総督府に入り、平安南道学務、地方各課長[1]、拓務事務官[3]、拓務書記官、殖産局商工課長[3]、興亜院調査官[1]大東亜省調査会在ハノイ総領事を歴任[1]

戦後の1946年埼玉県地方労働委員に就任[1]。翌1947年には忍町町長に就任した。1949年に忍町が市制施行により行田市になり、同市の市長に就任した[1]。在職中は市消防本部の設置、下水道工事に着手、中央公民館の開館が挙げられる[1]

1951年に一度市長を退任するが、1955年に再び行田市長に就任した[5]。二度目は、ゴミ焼却場の建設、小中学校の新設や改築、工場誘致奨励条例の制定、市内の優良産業従業員に対する表彰制度の実施などを行った[5]

1959年に市長を退任、退任後は市民を対象にした私塾を開いた[6]1989年に行田市から名誉市民を贈られた[6]。2002年死去。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、720頁。
  2. ^ 『現代物故者事典 2000~2002』、43頁。
  3. ^ a b c 日本官界情報社 編『日本官界名鑑』1942年、64頁。NDLJP:1271159 
  4. ^ 三高とその寮歌の紹介 奥貫賢一”. 2024年1月1日閲覧。
  5. ^ a b 『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、721頁。
  6. ^ a b [1] 行田市の名誉市民の方々

参考文献[編集]

  • 『日本官界名鑑』昭和十七年版、日本官界情報社。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 『現代物故者事典 2000~2002』日外アソシエーツ、2003年。