元文遙

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元 文遙(げん ぶんよう、生没年不詳)は、東魏から北斉にかけての官僚政治家は徳遠。本貫河南郡洛陽県[1][2][3]

経歴[編集]

元晞の子として生まれた。員外散騎常侍を初任とした。父の服喪を終えると、太尉東閤祭酒に任じられた。戦乱がひどくなると、官を辞して林慮山に隠れた。東魏の武定年間、大将軍高澄に召されて大将軍府功曹となった[4][2][3]

北斉が建国されると、中書舎人となった。後に理由も定かでないまま獄に捕らえられた。年をまたいで文宣帝により釈放され、尚書祠部郎中として起用された。高演(後の孝昭帝)が大丞相となって政権を掌握すると、文遙は大丞相府功曹参軍となって、政権の機密に参与した。孝昭帝が即位すると、中書侍郎に任じられ、永楽県伯に封じられた。孝昭帝が落馬の負傷のために死の床につくと、文遙は平秦王高帰彦や趙郡王高叡らとともに遺託を受け、武成帝の擁立に参加した。給事黄門侍郎・散騎常侍・侍中・中書監をつとめた[5][6][7]

天統2年(566年)、高氏の姓を賜った。尚書左僕射となり、寧都郡公に進んだ。趙彦深和士開らとともに重用された。天統5年(569年)、高叡や婁定遠らとともに和士開の追放を画策したが、失敗して高叡が殺害されると、文遙は西兗州刺史として出された。武平年間、和士開の死後に東徐州刺史から召されて入朝したが、任用されることなく死去した[8][9][10]

子女[編集]

  • 元行恭(尚書郎、中書舎人・待詔文林館、北周の司勲下大夫、開皇年間にまた尚書郎となったが、事件に連座して瓜州に流されて死去した)[11][12][13]
  • 元行恕(著作佐郎)[11][12][13]

脚注[編集]

  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 481.
  2. ^ a b 北斉書 1972, p. 503.
  3. ^ a b 北史 1974, p. 2004.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 481–482.
  5. ^ 氣賀澤 2021, p. 482.
  6. ^ 北斉書 1972, pp. 503–504.
  7. ^ 北史 1974, pp. 2004–2005.
  8. ^ 氣賀澤 2021, pp. 482–484.
  9. ^ 北斉書 1972, pp. 504–505.
  10. ^ 北史 1974, pp. 2005–2006.
  11. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 484.
  12. ^ a b 北斉書 1972, p. 505.
  13. ^ a b 北史 1974, p. 2006.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4