五十嵐恵 (海軍軍人)
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生誕 |
1889年5月24日 日本・新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市) |
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死没 |
1927年8月24日(38歳没) 日本・島根県美保関町沖 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1912年 - 1924年 |
最終階級 | 海軍中佐 |
五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年(明治22年)5月24日 - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の海軍軍人。美保関事件で殉職した「蕨」駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐。
人物・来歴
[編集]- 略歴
新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学、長岡中学を経て、1908年(明治41年)に海軍兵学校へ進んだ[1]。 五十嵐は海兵39期で、伊藤整一、角田覚治、和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一。山口多聞、福留繁、草鹿龍之介ら総勢20名であった。五十嵐は席次3番で卒業し[2]、第27駆逐隊所属の「蕨」駆逐艦長に補された。連合艦隊の夜間主力艦襲撃訓練中、「蕨」は軽巡洋艦「神通」と衝突し沈没。五十嵐ら92名[3]が殉職した。
- 人物
五十嵐は運動が得意で柔道四段、大柄な体躯であった。草鹿は「論客で、曲がったことは嫌い」と評している[4]。海兵、海大とも同期の原は親友であり、体つきや性格まで似ていたという[5]。「栂」駆逐艦長として美保関事件の現場にいた原は、五十嵐の死後も五十嵐家を頻繁に訪問し、戦後も交流が続いた。五十嵐家は海軍将校がよく訪問しており、山口多聞は常連であった。美保関事件時に軽巡洋艦「那珂」と衝突した「葦」駆逐艦長で、のちに殉職(戦死)する須賀彦次郎もその一人である。「神通」艦長で自決した水城圭次は五十嵐の海大時代の恩師であった。妻と一男一女が残され、事件当時3歳であった長男は日本蝶類学会会長を務めた五十嵐邁である。
出典
[編集]- ^ 夜間演習中の四隻、駆逐艦「蕨」が沈没『大阪毎日新聞』昭和2年8月26日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p49 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『美保関のかなたへ』p.23
- ^ 『美保関のかなたへ』p.84
- ^ 『一海軍士官の半生記』p186
- ^ 『美保関のかなたへ』p.78
参考文献
[編集]- 池田清『日本の海軍(下)』朝日ソノラマ、1987年。ISBN 4-257-17084-0。
- 五十嵐邁『美保関のかなたへ日本海軍特秘遭難事件』角川ソフィア文庫、2005年。ISBN 978-4-04-405801-2。
- 提督小沢治三郎伝刊行会編『提督小沢治三郎伝』原書房、1969年。
- 草鹿龍之介『一海軍士官の半生記』光和堂、1973年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
- 神戸大学図書館 大阪朝日新聞 1927.8.26(昭和2) 2012年1月13日閲覧