九町

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九町(くちょう)は、愛媛県西宇和郡伊方町郵便番号は796-0421。佐田岬半島中央部に位置する[1]

歴史[編集]

1889年(明治22年)から現在の大字名・字名である[1]。町見村役場が置かれた[1]。はじめ町見村の大字で、1955年(昭和30年)からは伊方町の現行字名である[1]。1889年(明治22年)、九町巡査屯所、1903年(明治36年)、九町漁業組合と九町郵便局がそれぞれ設置された[1]。伊方町の成立により旧村役場は、伊方町役場町見支所となる[1]

行政[編集]

  • 伊方町役場 町見出張所

経済[編集]

産業[編集]

店・企業
農業・商工業
  • 大澤辰三郎[2] - 1885年出生[2]。村会議員、収入役などをつとめた[2]
  • 林石松(農業菓子製造業)[2]
  • 渡邊松左衛門(酒造業、村会議員)[2]
  • 得能長三郎[2]
  • 中嶋久太郎[2]
ホテル・旅館
  • 潮屋旅館
  • 橘旅館
  • 旅館井倉
  • 民宿 渡辺
  • ビジネスハウス トシ

地域[編集]

相談[編集]

教育[編集]

  • 九町小学校

施設[編集]

宗教

医療[編集]

医師

旧家[編集]

  • 得能彌三郎[2] - 1896年戸主となる[2]。庄蔵の二男[2]。初代半兵衛は延宝4年に没した[2]。村会議員、寺総代などをつとめた
  • 得能長三郎[2] - 1876年出生[2]。得能長三郎家は得能彌三郎の祖先を本家とし、その分家である[2]。家は農を専業とする[2]。寺総代をつとめた[2]
  • 中嶋久太郎[2] - 1892年出生[2]。先代宇平の長男で、11代目である[2]。村会議員をつとめた[2]

名所・旧跡[編集]

  • 鷹神氏種族累代古墳[3] - 藤井克修「所謂少数部落の先祖に就て」によると「向部落に居る人々は須賀のスキザキに現存する墓碑「鷹神氏種族累代古墳墓」と読まれるその鷹神氏を自らの先祖と信じている[3]。鷹神氏の直系の子孫と称するは今、「浪下氏」を称して他の部落の人は向に移って居るが、ただ一戸須賀のスキザキに住して墓標を守っている[3]。墓標には「鷹神氏種族累代古墳墓」の他に一面には鷹神氏の由来を示している[3]。それによると鷹神氏は京都の北面の隠士である事、この地に漂着した事、この地を永住の地と定めた事は分かっているが、それが何時の時代の事かは明らかにされていない[3]。この墓標の文の終わりに文とは何らの関係なしに、だしぬけに「これ我等の先祖なり浪下吉蔵建」と記されてあるが、これでは一つも鷹神氏と浪下の関係は明らかにされていない[3]。しかし浪下は、この墓標を証拠として以て我等の先祖なることを主張している[3]。」という。
  • 得能主膳ゆかりの地(町指定史跡) - 1966年3月26日指定[4]。指定戦国期の九町・二見浦の在地領主得能主膳伝説の地である[4]。主膳を祀る得能森、所持品が埋まる沖の城、墓とされる梵田の3ヶ所である[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』265頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『愛媛県人物名鑑 第3輯』西宇和郡1 - 109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年10月19日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 藤井克修「所謂少数部落の先祖に就て」、『続・愛媛部落史資料』520 - 521頁。
  4. ^ a b c 得能主膳ゆかりの地”. 伊方町 (2015年1月13日). 2024年1月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『愛媛県人物名鑑 第3輯』海南新聞社、1923-1924年。
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』角川書店、1981年。
  • 高市光男『続・愛媛部落史資料』近代史文庫大阪研究会、1983年。