久利富周介

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くりとみ しゅうすけ
久利冨 周介
本名 長島 勝重 (ながしま かつしげ)
別名義 久利冨 周助
久利冨 秀介
東 健兒 (あずま けんじ)
東 健次
久里登美 周平 (くりとみ しゅうへい)
生年月日 1905年
没年月日 1927年3月1日
出生地 日本の旗 日本
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1923年頃 - 1927年
配偶者
主な作品
正剣邪剣
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久利富 周介(くりとみ しゅうすけ、1905年 - 1927年3月1日)は、日本の俳優である[1][2]久利冨 周介と表記されることもある。本名は長島 勝重(ながしま かつしげ)[1][2]久利冨 周助久利冨 秀介と表記に揺れがある。旧芸名は東 健兒(あずま けんじ)[1][2]東 健次[1][2]久里登美 周平(くりとみ しゅうへい)[2]

来歴・人物[編集]

1905年(明治35年)に生まれる[1][2]

詳細な年月日は不明だが、映画界に入る以前は筒井徳二郎一座に所属していた[1][2]。1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションに入社する[1][2]。入社当初は東健児という芸名で活動していたが、同所の映画監督である寿々喜多呂九平(1899年 - 1960年)が、去る1924年(大正13年)5月8日に公開された後藤秋声監督映画『血桜』で阪東妻三郎(1901年 - 1953年)の演じた平戸美周介にちなんで、久利富周介と命名されたといわれている[1][2]。以後、同所の悪役俳優として多数の作品に出演した。

また、2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、東健而で筒井徳二郎一座に入り、愚教師というペンネームを用いた事もあるという旨が記されているが、徳川夢声(1894年 - 1971年)を養成した事で知られる愚教師こと東健而(1889年 - 1933年)の誤植と思われる[2]

1927年(昭和2年)2月27日からロケーション撮影が開始された牧野省三監督映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』において、久利富は同年2月28日にかけて大雪の彦根城月形龍之介(1902年 - 1970年)扮する清水一角に斬られて池に放り込まれる浪士役を演じたが、それがもとで流行性感冒を発症し、入院する[1]。回復の見込みも無いまま、翌日の同年3月1日に流行性感冒、急性肺炎の併発症のため急逝した[1][2]。満22歳没。撮影所葬は同年3月6日に行われた[1]。なお、久利富の未亡人・長島フユは、同年7月7日に同じくマキノ・プロダクションに在籍していた小宮一晃(1902年 - 没年不詳)と再婚している。

久利富の来歴ついて記載されている資料はほとんど存在しない。また、キネマ旬報映画データベースにおいても久利富の項目は確認できない。

出演作品[編集]

マキノ・プロダクション御室撮影所[編集]

特筆以外、全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画、特筆以外は全て「久利富周介」名義である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画興亡史 マキノ一家』ワイズ出版、2000年、24頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]