乃木傳庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
乃木傳庵
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永15年(1638年
死没 享保5年2月5日1720年3月13日
改名 亀太郎(幼名)→瑞栄→傳庵(号)
戒名 全壽院回元傅庵日永居士
主君 毛利綱元元朝元矩
長門長府藩藩主侍医
氏族 乃木氏
父母 父:乃木冬継、母:川手十郎左衛門の娘
兄弟 殷政傳庵打它寿庵
正室:玉木、継室:雲松院
玉木春政、娘(乃木随友の妻)
養子:随友
テンプレートを表示

乃木 傳庵(のぎ でんあん、寛永15年(1638年)- 享保5年2月5日1720年3月13日)は、江戸時代の医師、武士長門長府藩江戸定府の藩主侍医。後に乃木希典を輩出する長府藩士家の乃木家の家祖。

  • 佐々木冬純-乃木傳庵(端昌)=随友(瑞庵)-道伯(希和)…庸貞(壽伯)…隆伯-龍玄(周久)=希幸=希次-希典[1]

経歴[編集]

寛永15年(1638年)、乃木冬継の次男として生まれる(佐々木冬純の長男とする異説もあり[2])。母は伊予松山藩士・川手十郎左衛門の娘(冬継の後妻。金山豊春の娘とする史料もあり)。父冬継は毛利秀元に仕えていたが、故あって浪人していた。延宝6年(1678年2月24日、冬継が死去する。

天和元年(1681年)、毛利綱広の七女幸姫の年寄格の女中であった玉木[3]との間に長男の久太郎が生まれる。この縁もあって天和2年(1682年4月22日平野丹波守の取り成しで長府藩主の毛利綱元に江戸定府の藩主侍医として仕官し、改めて長府藩士となる。仕官時、17人扶持で月並30人扶持金30両を割り当てられる。最終的な石高は300石であった。なお、妻の玉木は元禄2年(1689年)に死去したため、後に後妻[4]を迎える。

元禄15年(1702年)、長男の久太郎春政が長州藩毛利吉広に召し出されて長州藩士となり、母染女の勲功で分立してかつて母が名乗っていた「玉木」を姓として称する。これにより、跡継ぎがいなくなったため、甥(打它寿庵の三男)で娘婿の随友を養子とした。

宝永2年1月17日(1705年)、春政が江戸で死去する。また、正徳3年(1713年)、異母兄で伊勢国津藩士であった殷政[5]が、正徳5年(1715年)に同母弟の打它寿庵[6]が死去している。享保5年(1720年)2月5日死去。享年83。

人物[編集]

武術に長けており、特に弓矢に秀でていたという。

参考文献[編集]

  • 『八束郡誌(所収 乃木家系図)』島根県
  • 『藩中略譜(所収 乃木氏)』長府図書館所蔵資料
  • 塚田清市『乃木大将事跡』乃木十三日会

脚注[編集]

  1. ^ 『藩中略譜(所収 乃木氏)』(長府図書館所蔵資料)
  2. ^ 「佐々木三太夫源冬純ト称ス、冬純金山豊春ノ女ヲ娶リ一子ヲ得タリ、医ヲ学ビテ佐々木端昌ト称ス、端昌当藩ニ仕フ、乃木傳庵ト改ム」
  3. ^ 本名は染女。京都賀茂の西村図書の娘。「玉木」は幸姫の年寄格の女中として称した名。
  4. ^ 実名不詳、享保11年(1726年9月6日死去。法名は雲松院華森永芳妙厳大姉。
  5. ^ 足軽頭。石高は25石5人扶持。母は冬継前妻の宇津橋主計の姉。
  6. ^ 友永家を相続後、宝永2年に「打它」と改姓。対馬府中藩士。石高70石で馬廻