ヴィルヘルミーネ・マリーエ・ア・ダンマーク
ヴィルヘルミーネ・マリーエ・ア・ダンマーク(Vilhelmine Marie af Danmark, 1808年1月18日 キール - 1891年5月30日 グリュックスブルク)は、デンマーク=ノルウェー王フレゼリク6世とその妃でヘッセン=カッセル侯子カールの娘マリーの間に生まれた末娘。同族のフレゼリク王子(後の国王フレゼリク7世)と結婚したが離婚し、次いで分家のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公カールと再婚した。
父王に息子が無かったため、デンマーク王位の相続人となる可能性の高いヴィルヘルミーネ・マリーエには数多くの求婚者がいた。その中にはスウェーデンの新興王家ベルナドッテ家のオスカル王太子(後のオスカル1世)もいた。1828年11月1日、ヴィルヘルミーネはコペンハーゲンで同族の又従弟フレゼリク王子と結婚した。この結婚はデンマーク王室内の本家と分家を結び付けるためのものだったが、ヴィルヘルミーネの結婚生活は不幸だった。夫のフレゼリク王子が他の女を追いかけまわす放蕩者だった上、酷い大酒飲みだったのである。2人は1834年に別居し、1837年に離婚した。
翌1838年5月19日、ヴィルヘルミーネはアマリエンボー宮殿においてグリュックスブルク公カールと再婚した。カールは後のデンマーク王クリスチャン9世の長兄であり、またヴィルヘルミーネの母方の従弟だった。ヴィルヘルミーネはどちらの夫との間にも子供を授からなかった。ヴィルヘルミーネには流産や死産をした記録が無いため、彼女は不妊症だったと一般的に考えられる。
第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年 - 1851年)が起きると、夫のカールはデンマークと敵対してドイツ系住民のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン独立政府に参加した。このためヴィルヘルミーネと実家デンマーク王家との関係は一時的にとげとげしいものになった。1852年にヴィルヘルミーネは実家と和解し、デンマーク王室の人々と再び親しく関わった。国民に愛されたフレゼリク6世の娘、そして国民に嫌われたフレゼリク7世に虐げられ捨てられた先妻であるヴィルヘルミーネは、デンマーク国民の間で再び人気を得ることができた。しかし夫のカールは国民から憎悪されたままだった。