ロナルド・カーク

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ロナルド・カーク

ロナルド・カーク(Ronald Kirk, 1954年6月27日 - )は、アメリカ合衆国政治家。1995年から2002年までテキサス州ダラス市長を務めた。2009年から2013年までアメリカ合衆国通商代表部の第16代代表を務めた。

生い立ち[編集]

1954年6月27日、ロナルド・カークはテキサス州オースティンにおいて誕生した。カークは1972年にテキサス州ヒューストンジョン・H・レーガン高校を卒業し、1976年にオースティン大学で政治学の学士号を取得した。カークはテキサス大学法科大学院で学び、1979年に法務博士号を取得した。カークは1979年にテキサス州で弁護士として認可を受けた。カークは1979年から1981年まで弁護士業を営んだ。

初期の経歴[編集]

カークが最初に政治に関与したのは、18歳のときであった。カークは1972年の大統領選挙において、民主党候補ジョージ・マクガヴァンの選挙ボランティアとなった。カークは高い評価を受け、ダラス地区の選挙本部での活動を任された。カークはアン・リチャーズビル・クリントンヒラリー・ローダムらとともにダラス地区での選挙運動に参加した。

1981年、カークはテキサス州選出上院議員ロイド・ベンツェンの事務所に入った。カークは1983年にテキサス州に帰郷し、州議会でロビー活動を行った。カークはダラス市検事を務め、その後は法律事務所の経営を行った。

1994年、カークはテキサス州知事アン・リチャーズの下で州務長官を務めた。

ダラス市長[編集]

ロン・カーク

1994年、カークはダラス市長に立候補した。カークはダラスのビジネス界やアフリカ系アメリカ人コミュニティの有力者から支持を集め、得票率62パーセントで勝利した。

カークは1995年からダラス市長として、歴史的に対立を続けてきた市議会と市教育委員会とを協調させることを試みた。カークはどうにか対立を収めることに成功し、調停者としての評判を獲得した。カークは「ダラス計画」と呼ばれる25ヵ年の都市改造計画を提起した。この計画においてダラスは、トリニティ川流域のおよそ4050ヘクタールを自然公園として再開発する公共事業「トリニティ川プロジェクト」を打ち出し、議論を引き起こした。ダラスは2億4600万ドルをかけて公園ネットワークを構築することを求め、トリニティ川の氾濫原に高速道路を建設するよう働きかけた。またダラスは屋内競技施設アメリカン・エアラインズ・センターの建設を推進し、2001年の竣工まで工事経過を見守った。

カークは1999年のダラス市長選挙において、得票率74パーセントという地滑り的勝利で再選した。2001年、カークは連邦上院議員への立候補を表明し、2002年の2月にダラス市長を辞任した。2002年の連邦上院議員選挙でカークは、共和党所属のテキサス州検事総長ジョン・コーニンおよびリバタリアン党所属のスコット・ジェイムソンと争った。この選挙は、共和党コーニンが得票率55パーセントで勝利を収めた。カークは得票率43パーセントで敗れた。

市長退任後[編集]

2002年の上院議員選挙に敗れた後、カークはダラスで弁護士業に復帰した。カークはダラス市内の法律事務所ガーディア・ウェイン・スーウェルに所属した。カークは2005年からヒューストンの法律事務所ヴィンソン・アンド・エルキンズに経営パートナーとして加わった。2007年、カークは電力会社エナジー・フューチャー・ホールディングスで有給ロビイストとして雇われた[1]

アメリカ合衆国通商代表[編集]

通商代表の指名を受けて会見するカーク

2009年に大統領に就任したバラク・オバマ政権よりアメリカ合衆国通商代表部の代表に任命された。

2013年にアメリカ合衆国通商代表部代表を退任。

注釈[編集]

公職
先代:
ジョン・ハンナー
テキサス州州務長官
1994年4月4日 - 1995年1月17日
次代:
アントニオ・ガーザ
先代:
スティーヴ・バートレット
ダラス市長
1995年6月5日 - 2002年2月20日
次代:
ローラ・ミラー
先代:
スーザン・シュワブ
アメリカ合衆国通商代表
2009年 - 2013年
次代:
マイケル・フロマン