メアリー・アニング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
メアリー・アニング
人物情報
生誕 1799年5月21日
死没 1847年3月9日(満47歳没)
学問
研究分野 古生物学
テンプレートを表示

メアリー・アニング(Mary Anning、1799年5月21日 - 1847年3月9日)は、イギリスの初期の化石採集者で古生物学者

人生[編集]

メアリー・アニングはイギリス南部沿岸ドーセット州ライム・リージス村で生まれた。彼女が生後15か月だった1800年、雷が村を襲い、4人に直撃した。その内3人が死亡したが、生き残った1人がメアリーだった。

メアリーの父リチャードは家具職人だったが、ライム・リージス村沿岸の崖で化石を採集し、それを観光客に売ることで生計を立てていた。1810年に父が結核で亡くなるとアニング家の収入は途絶え、学校にも行けなくなった。メアリーと兄のジョセフで化石を採集し、生計を支えなければならなくなった。

化石採集は18世紀終わりから19世紀始めにかけてブームになった。始めの頃は切手収集とおなじような余暇であったが、しだいに地質学生物学の理解に必要な科学になっていった。彼女は始めは観光客相手に化石の採集を始めたが、すぐに化石への興味が強く高い値段で買ってくれる科学界と関係を築いていった。

メアリーと科学界との関係が最初にできたのは、父の死の数ヶ月後の1811年、彼女がイクチオサウルスの骨格の化石を見つけた時であった。ジョセフが一年前に大きなワニのように見える頭蓋骨の化石を見つけていたが、骨格の残りの部分は始めは見つかっていなかった。しかしメアリーが嵐の後に来てみると、化石を含んだ崖の一部が削り取られていた。イクチオサウルスの化石自体は1699年にウェールズですでに発見されていたが、彼女が発見したのは最初の全身化石であった。これは重要な発見で、化石はすぐに王立協会の手に渡ったが、メアリーはこの時わずか12歳であった。彼女はその後2体の別のイクチオサウルスの化石を発見している。

生家に掛けられている記念盾

メアリーの評判が高まると、彼女は裕福な化石収集者であるトーマス・バーチ (Thomas Birch) の目に留まった。アニング家が貧困で困っているのを見て、彼は自身の化石を売り、売り上げの約400ポンドをアニング家に与えた。ここ10年で初めて財政的な態勢が整ったことで、メアリーはジョセフが家具職人として勤め始めてからも化石採集を続けた。彼女の次の大発見は、1821年プレシオサウルスの骨格化石の初めての発見であった。この発見は後にウィリアム・コニーベアー (William Conybeare) によって記載され、メアリーの発見した化石がその後タイプ標本となった。その後1828年には新種の魚の化石や、ドイツ以外では初めてとなる翼竜ディモルフォドン)の、全身の化石などを発見した。

以上の3つの発見によってメアリーの名前は歴史に残ったが、彼女は生涯を通じて化石の発掘を続け、初期の古生物学に大きく貢献した。30代後半になると、イギリス学術振興協会から収入を得ることになった。メアリーは乳癌により47歳で世を去ったが、死の数か月前にロンドン地質学会の名誉会員に選ばれた。

科学に与えた影響[編集]

ロンドン自然史博物館に展示されているプレシオサウルス化石とアニングの解説文

メアリー・アニングの発見は、過去に絶滅があったことの証拠となった。その頃までは、動物が絶滅するとは信じられておらず、奇妙な化石が発見されても地球上の未開の地に棲息している未発見の動物だと説明されてきた。アニングの発見した化石はこのような議論に終止符を打つものであり、古代の生物への正しい理解を導いた。

メアリーは死後、一旦は忘れ去られたが、後に再発見され、ロンドン地質学会は彼女を追悼して教区教会の聖ミカエル教会にステンドグラスを作った。銘にはこう書かれている。「このステンドグラスは、1847年3月9日に亡くなったこの教区のメアリー・アニングを追悼するために作られたものである。これは、司教代理とロンドン地質学会の会員有志によって、彼女の博愛、高潔と地質学への貢献を記念して作られた。」

メアリーは、She sells sea shells by the sea shore.(彼女は海岸で貝殻を売った)という早口言葉のモデルになった人物であると考えられている。また、「アーティチョーク」というグループの歌、Anning, Maryの題材になっている。

関連項目[編集]