ヘルフタのゲルトルード

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ヘルフタの聖ゲルトルード
(大聖ゲルトルード)
ヘルフタの聖ゲルトルード(大聖ゲルトルード)
ベネディクト会修道女神秘家神学者聖人
生誕 1256年1月6日
アイスレーベンテューリンゲン神聖ローマ帝国ドイツ
死没 1301年/1302年
ヘルフタ・ザクセン(ドイツ)
崇敬する教派 ローマ・カトリック教会
記念日 11月16日
象徴 冠、百合の花、
守護対象 西インド諸島、旅行者、 ナポリ

ヘルフタの聖ゲルトルードまたは大聖ゲルトルード(ドイツ名:Gertrud von Helfta; Gertrud die Große; 1256年1月6日 - 1301年/1302年)は、ドイツベネディクト会修道女で、神秘家神学者である。カトリック教会聖人であり、11月16日がその祝日として、カトリック教会の教会暦には記録されている。

生涯[編集]

ゲルトルードの幼少時代はほとんど知られていない。ゲルトルードは1256年、「主の公現の祝日」である1月6日、当時神聖ローマ帝国の領域であったテューリンゲンアイスレーベンで生まれた。

両親や家族については何もわかっておらず、両親の名前すら不明である。なお、アイスべーレン付近では生まれていないとする文書もある[1]

このことについて、ゲルトルード自身はその著作の中で、自分の出生が分からないことについては、自分が観た幻視の中でイエス・キリストが現われ、キリストの意思によりそうなったことを示したと書いている[2]。4歳のとき[3]、彼女はヘルフタの聖マリア修道院内に併設された学校に入った(この修道院がベネディクト会またはシトー会とするのが良いのかという議論がよく語られる[4])。

ゲルトルードは並外れた生徒で、当時教えられた3学4科から学び得る全てを学んだ。学問に心を引き付けられ、熱心に根気よく世俗的な勉学に打ち込み、周囲の期待をはるかに上回る成績を上げたという。特に文学、音楽、歌、細密画が彼女の心を捕えた[2]。学生時代のゲルトルードは、強く、はきはきし、気短かで、向う見ずな性格であり、自分自身でしばしば怠惰だったと自身で述べている。後に自分の欠点を認め、謙虚にゆるしを願い、へりくだりのうちに助言と回心のための祈りを求めたという。ただし、ゲルトルードの気性と欠点は最後まで変わらず、なぜイエス・キリストが彼女をそれほどまでに愛されるのか、不思議がったという者もいたとする話がある[2]

そしてゲルトルードは、ここの修道院長の指導を受けた。ゲルトルードは敬虔な両親によって、子供の修道生活献身者として捧げられたものと推察される。ゲルトルードは、「神の愛の使者」の中で、彼女の両親はこの本の執筆時点のだいぶ前に死去していることを暗示している[5]。しかし、彼女は孤児として修道院併設の学校に入ることが可能であった。

ゲルトルードは、ハッケボルンの聖メヒティルトに預けられた。この人物は、修道院長であるハッケボルンのゲルトルードの妹である。1266年に、ゲルトルードは修道共同体での生活に入った[6]。ゲルトルード自身の手で明らかに書かれているのは、この修道院で徹底した教育を受けたことである[7]。ゲルトルードは、修道生活に入って神に完全に自分を捧げた後、20年間は何も特別なことは起こらず、勉学と祈りに集中し、様々な分野で粘り強く教養を深め、同僚の中でも際立つ存在となった。しかし、1280年の待降節の間、彼女はこれらすべてのことに嫌気を覚え始め、空しさを感じたという[2]

1281年、25歳のとき、ゲルトルードは最初となる一連の幻視(ヴィジョン)を経験している[8]。ゲルトルードは1281年1月27日の終課時に、自分の心の闇を照らすものを感じ、自分を苦しめていた動揺が静められたように感じた。このときにゲルトルードは若者の姿を幻視している。この幻視の中の若者は、ゲルトルードを手で抱え、導き、彼女の魂を悩ませていた茨の垣根を乗り越えさせた。このときからゲルトルードは、イエス・キリストと深く一致した生活を送る。このイエス・キリストの一致は、待降節や復活節などの特に重要な典礼の季節に見られた[2]

このような幻視は、彼女の生涯を通じて続くことになる。このことによって、彼女の人生の進路が変わった。彼女は世俗的な知識から離れて、聖書神学の研究の方へと移行した。 ゲルトルードは、個人的な祈りと瞑想を強く献身的に行い、自分の修道院のシスターたちのためになる霊的論文を書き始めた[9]

ゲルトルートはこのときの回心を定義づけて「勉学」と「修道生活」という2つの方向性を示している。「勉学」においては世俗的な人文的学問から神学へ徹底的な移行し、「修道生活」においては自ら怠惰だった生活から、特別な宣教的情熱を伴う深く神秘的な祈りの生活へと移行した。この方向性により、ゲルトルードは外的な事物から内的生活、地上的関心から霊的な事柄への移行を果たした[2]。   ゲルトルードは13世紀の偉大な神秘家の一人となった。彼女の友人であり教師であるハッケボルンの聖メヒティルトと共に、彼女は霊的に「婚姻神秘主義」を実践した。それは、彼女が自分自身をキリストの花嫁として見ることに至る[10]

ゲルトルードはヘルフタで1302年頃に死去した。彼女の祝日は11月16日に祝われる。しかし、正確な死亡日は判明していない。11月という日付は、修道院長であったハッケボルンのゲルトルートと混同したことに由来する。

著作[編集]

ヘルフタの聖ゲルトルード、 Merazhofen Pfarrkirche Chorgestühl

ゲルトルードは数多くの著作を残したが、今日まで残っているのはわずか数冊である。最も長編の現存作品は『神の愛の使者』であるが、他の修道女によって書かれている部分がある。彼女の著作集である『霊的修行』もまた現存する。『ゲルトルードの祈り』として知られる作品は最後に編集され、部分的にゲルトルードが書いたものと彼女の祈祷法から成り立っている[11][12]

『神の愛の使者』は5分冊で構成され、第2分冊はその中心部を形作っている。そしてこの部分を書いたのはゲルトルード本人である。彼女はこの作品に取り組み始めたのは1289年聖木曜日だと述べている。第3、第4そして第5分冊は別の修道女によって書かれたものであるか、または複数の修道女によって書かれた可能性がある。ゲルトルートの存命中は少なくとも部分的に彼女の口述であったと思われる。第1分冊は、書かれたのは短く、ゲルトルードの死の前か後にこの一連の著作の序章として書かれた。この第1分冊は、ゲルトルードの聴罪司祭によって書かれた可能性がある。しかし、この第1分冊の著者の文筆はもう一人のヘルフタの修道女にかなり類似している[13]

彼女と『神の愛の使者』の第1分冊、そして第3から第5分冊を執筆した修道女は、ヒッポの聖アウグスティヌス聖グレゴリウス1世(大聖グレゴリオ)のような教父、そして聖ヴィクター・リチャードや聖ヴィクター・ヒュー、聖ティエリー・ウィリアムといったその当時の霊的な著作家まで、聖書に関する著作物に精通していた。その上、ゲルトルードの著作を読むと、彼女が修辞法を熟知していたこと、そして彼女のラテン語が流暢であったということがわかる[14]

西方キリスト教徒の女性の聖人で最も崇敬される一人であるゲルトルードは、初期のイエスの聖心に対する注目すべき信仰者であった[9]。『神の愛の使者』の第2分冊は、キリスト教徒の献身の歴史の中でも注目に値する。その理由は、この第2分冊中でゲルトルードが長い間にわたって幻視したヴィジョンが鮮やかに描き出されており、それはかなり詳細な部分まで示されていた。しかし、キリストの心臓への崇敬については不明瞭であった。 このキリストの心臓への崇敬は、キリストの心臓はキリストの脇腹の傷を通じて、償罪の噴水を放出しているとする信仰の中に存在する。聖ベルナルドが書いた雅歌への論評でこの信仰を表現したものが最も著名であるが、その中に最高潮に達しているイメージがある。ゲルトルートは確実に聖ベルナルドの論評を知っていたが、彼女を先頭とするヘルフタの女性たちと2人のメヒティルトは、この信仰を自分たちの神秘的な幻視の中核とした[15]

聖ゲルトルードは福音記者ヨハネの祝日に、一つのヴィジョンを幻視していた。彼女は救い主の脇腹の近くに自分の頭を寄りかからせ、そして聖なる心臓が鼓動するのを聞いていた。もし最後の晩餐の夜に、彼がこの脈動を感じたなら、なぜ彼はその事実を言わなかったのか、と彼女は聖ヨハネに尋ねた。聖ヨハネの答えは、世界が冷え込んでしまって、キリストへの愛を再燃させるためにこの啓示が必要になる時、この啓示はそのような後の世代のためにずっと取って置かれていた、いうものだった[16]

『霊的修行』の重要性は現在まで及ぶ。なぜなら、それらは洗礼、改心、誓約、弟子の精神、神との一致、神への称賛、そして死への準備の機会における教会典礼の主題と儀式に根差すものであるからである。ゲルトルードの『霊的修行』は 祈りと瞑想を通じて霊性を深めることを目的とする者なら、誰にとっても役立たせることができる[17]

ゲルトルードがヘルフタの他の修道女と共同執筆したといわれる書として『特別な恩寵の書』(Liber specialis gratiae)が挙げられる。これはハッケボルンの聖メヒティルトが受けた幼い時からの霊的啓示を、文書として綴ったものである。当初、聖メヒティルトはこのように自分の霊的啓示を書き留められていたことを知った時、深く悩み苦しんだが、聖メヒティルトの幻視の中でイエス・キリストが現れ、神の栄光と隣人の利益のためであると慰め、理解させたという[18]

後世の評価と影響[編集]

ゲルトルードの死後、彼女の著作はほとんど跡形もなく消え去ってしまっているように見える。『神の愛の使者』の写本5冊のみが現存しており、その最も初期のものは1412年に書かれたものである。そしてこれらの写本のうち2冊のみ完全なものである。印刷機の発明に伴い、ゲルトルードははるかに目立つ存在となった。イタリア語ドイツ語の翻訳版が16世紀に出版されたのである。ゲルトルードは17世紀フランスにおいて人気があった。そこでは、彼女の確信と神への燃えるような愛が、ジャンセニスムに対する強力な対抗策となった。聖フィリッポ・ネリと聖フランシスコ・サレジオは2人ともゲルトルードの祈りを取り入れ、他にも祈ることを推奨した。ゲルトルードの作品は、16世紀における跣足カルメル会にもまた人気があった。アビラのテレサの聴罪司祭であったフランシスコ・リベラ神父は、テレサにゲルトルードを霊的な指導者そして導き手とするよう勧めた。近年になって、フランスベネディクト会修道司祭ドム・プロスパー・ゲランジェは、ゲルトルードに影響を受けた。彼の「ソロスメスの集会」が19世紀において担当した仕事は、ゲルトルードの影響によるものである[19]

崇敬[編集]

ゲルトルードは正式に列聖されたことはなかったが、典礼での祈り、読書、讃美歌においてゲルトルードを賛美することが、1606年にローマ教皇庁により認められた。その後、聖ゲルトルードの祝日は1738年に教皇クレメンス12世によって普遍的教会にも導入された。祝日は、現在ではゲルトルードが死去した11月16日とされている。教皇ベネディクト14世は、ゲルトルードに「大聖」(die Große)の称号を付け、ハッケボルンのゲルトルード修道院長と区別するとともに、その霊的、神学的洞察の深淵性を讃えた[17]

ゲルトルードは、「煉獄で苦しむ霊魂に対する憐れみ」を示し、そして煉獄で苦しむ霊魂に対し祈ることをしきりに勧めた[20]。そのため今日、煉獄で苦しむ霊魂のために祈る際には、ゲルトルードの加護が祈願される。

守護聖人として[編集]

スペインフェリペ4世の懇願に基づき、ゲルトルードは西インド諸島守護聖人として宣言された。ペルーにおいては、ゲルトルードの祝日は盛大で華やかに祝われ、ニューメキシコにはゲルトルードの栄誉と名前を冠する町がある[6]

後世への遺産[編集]

  • 後世において、ゲルトルードはしばしばヘルフタの聖マリア修道院の修道院長であるハッケボルンのゲルトルードと混同される。その結果として、彼女はよく絵画において間違って牧杖を持っている姿で描かれる(このページの一番上の絵のように)。
  • アメリカアイダホ州コットンウッドにある聖ゲルトルード修道院は、約50人のベネディクト会修道女共同体の拠点である[17]

脚注[編集]

  1. ^ Catholic Encyclopedia New Advent St.Gertrude the Great
  2. ^ a b c d e f カトリック中央協議会 教皇ベネディクト十六世の241回目の一般謁見演説
  3. ^ ゲルトルードの伝記著者は、"彼女の5年目に"、と書き表しており、これを"彼女が5歳の時"とするいくつかの誤解を招いた。 Alexandra Barrett Alexandra Barrett, 'Introduction', in Gertrud the Great of Helfta, The Herald of God's Loving-Kindness: Books One and Two, (Kalamazoo, 1991), p10
  4. ^ これは20世紀のゲルトルード研究におけるいくつかの競合点であった。最適の回答は、厳密にいえば、ヘルフタはベネディクト会の修道院であるが、シトー会の改革に強く影響されていた。というものである。このことは、当時の修道者たちの間ではこの部分が明確に区分されていないことに影響している。ヘルフタは、他の多くの聖ベネディクトの戒律に従う女子修道院と同じく、シトー会の秩序に大変影響されていた。そして実際、シトー会の秩序を取り入れたハルバーシュタット(Halberstadt)からの修道女のグループによって1258年に設立されている。しかし、1228年のシトー会の総集会がそれ以上の修道女を自分たちの会派に受け入れることを禁じたので、公式にはシトー会修道女とはなれずにいたのだった。その理由は、修道士たちにとって自分たちが面倒を見る修道女の数が、既に負担しきれないものとなっていたからであった。ヘルフタはそれゆえ、公式にはシトー会とはなることができなかったのである。にもかかわらず、ヘルフタの秩序はシトー会の秩序であるように見受けられるのは明らかで聖ベルナルドの作品は、確かにヘルフタの影響力を大変強く受けている。この修道女たちが着ていたのが、黒いベネディクト会の修道服か、白いシトー会の修道服かは明らかではない。しかし、ゲルトルードとメヒティルトがほぼ一般的に黒い修道服で描かれることに注目すると興味深い。この修道会の霊的指導者は、ベネディクト会でもハッケボルン・シトー会でもなく、ドミニコ会である。 Sr Maximilian Marnau 'Introduction', in Gertrude of Helfta, The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p10; Caroline Bynum Walker, Jesus as Mother, (Berkeley and Los Angeles, 1982), pp174-5.
  5. ^ 「神の愛の使者」第2分冊、16章
  6. ^ a b Casanova, Gertrude. "St. Gertrude the Great." The Catholic Encyclopedia. Vol. 6. New York: Robert Appleton Company, 1909. 8 May 2013
  7. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p6
  8. ^ これは「神の愛の使者」の1.1と2.1に描かれている。
  9. ^ a b "St. Gertrude the Great", Catholic News Service
  10. ^ Foley O.F.M., Leonard. Saint of the Day, Lives, Lessons, and Feast, (revised by Pat McCloskey O.F.M.), Franciscan Media, ISBN 978-0-86716-887-7
  11. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', inGertrude of Helfta, The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p11
  12. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta, The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p11
  13. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta, The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p12. シスター・マキシミリアン・ムルナウは、第1分冊がゲルトルードの死後に書かれたことを示唆するが、アレクサンドリア・バレットはゲルトルードの死去が第1分冊に記述されていないことから、第1分冊は彼女が死去する以前に書かれた可能性があることを示唆する。 Alexandra Barrett, 'Introduction', in Gertrud the Great of Helfta, The Herald of God's Loving-Kindness: Books One and Two, (Kalamazoo, 1991), p17
  14. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta 'The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p6
  15. ^ Jenkins, Eve B., "St Gertrude's Synecdoche: The Problem of Writing the Sacred Heart", Essays in Medieval Studies, Vol. 14, 1997, Illinois Medieval Association
  16. ^ , Mark W. Lynn Phd, Mark W., "History of the Feast of the Sacred Heart of Jesus", Knights of Columbus-Florida State Council
  17. ^ a b c Bossert, Sr. Evangela. "St. Gertrude of Helfta", Monastery of St. Gertrude, Cottonwood, Idaho
  18. ^ 教皇ベネディクト十六世の240回目の一般謁見演説
  19. ^ Sr Maximilian Marnau, 'Introduction', in Gertrude of Helfta, The Herald of Divine Love, (New York: Paulist Press, 1993), p43
  20. ^ New Advent St.Gertrude the Great January 9 2009

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Gertrude the Great of Helfta, Spiritual Exercises, Translated, with an Introduction, by Gertrud Jaron Lewis and Jack Lewis. Cistercian Fathers series no. 49, (Kalamazoo: Cistercian Publications, 1989)
  • Gertrud the Great of Helfta, The Herald of God's Loving-Kindness, books 1 and 2, translated, with an Introduction, by Alexandra Barratt. Cistercian Fathers series no. 35, (Kalamazoo, MI: Cistercian Publications, 1991)
  • Gertrud the Great of Helfta, The Herald of God's Loving-Kindness, book 3, translated, with an Introduction, by Alexandra Barratt. Cistercian Fathers series no. 63, (Kalamazoo, MI: Cistercian Publications, 1999)
  • Gertrude of Helfta, The herald of divine love, translated and edited by Margaret Winkworth, introduced by Sister Maximilian Marnau, preface by Louis Bouyer. Classics of Western Spirituality. (New York: Paulist Press, 1993) [This contains a full translation of Books 1 and 2, and a partial translation of Book 3.]

外部リンク[編集]