プエブロ

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プエブロ(Pueblo)は、メキシコ北部とアメリカ合衆国南西部、特にニューメキシコ州アリゾナ州に残る民族集団の伝統的な共同体、集落を指し、またそこに住む人々(Pueblo People, またはpueblos)を集合的に呼んだ言葉。現在およそ35,000人のプエブロ・インディアンがいる。

目次

[編集] 語源と用法

プエブロと言う名前はスペイン人によって名づけられたもので、ラテン語の単語populus(POPVLVS, 「人々」の意)から発展した単語のスペイン語で「町、集落」という意味。アドベ(adobe)と呼ばれる日干しレンガで作られたアパートのような集合住宅を構えていたことからこの名前がつけられた。

[編集] 史跡としての集落

アコマの水を運ぶ女性。Edward S. Curtis撮影

現在知られているおよそ25のプエブロ民族が、それぞれ現存するプエブロ集落を構えている。タオスアコマホピズニなどが有名である。タオス・プエブロなどのいくつかのプエブロ民族は、何世紀も続いているアドベで作られた集落に居住している。歴史的なプエブロ集落の居住者は、しばしば集落の外に他の家を持って住んでいる。プエブロ集落周辺の町や都市では、アドベ煉瓦かまたはそれに似せた工法による建築が多い。

また、現代のプエブロ集落に加えて、有史以前の起源を持つアナサジの居住地跡など、南西部の考古学的な関心が集まる史跡が多数点在している。

[編集] 歴史

彼らはスペイン入植以前の三つの文化的グループの子孫であると考えられている。

プエブロは、ほぼトウモロコシの農業のみによって自活した唯一の先住民族のグループだった。16世紀末にはスペイン人の入植が始まったが、リオグランデ川流域を囲む砂漠は、19世紀半ばまで大規模なヨーロッパ人の侵入を排除した。その結果、スペイン伝道所のカトリックへの強制的な転換にもかかわらず、プエブロのインディアンたちは伝統的なライフスタイルを維持することができた。1680年にはポペ率いる集団がプエブロの反乱(Pueblo revolt)を起こした。

[編集] 言語による分類

プエブロはそれぞれの言語によって大きく6つのグループに分けられている。

  • ホピ語 - ユテ=アステカ語族のひとつ
  • ズニ語 - 孤立言語
  • ケレス語 - アコマ、ラグナ、サンタアナ、ズィア、コチティ、サントドミンゴ、サンフェリペの各プエブロの方言連続体
  • タノア語 - カイオワ=タノア語族のひとつ。さらに以下のように分類される
    • トワ語 - ヘメス
    • テワ語 - サンフアン、サンイルデフォンソ、サンタクララ、テスケ、ナンベ、ポホアケ、ハノの各プエブロ
    • ティワ語
      • タオス語
      • ピクリス語
      • 南部ティワ語 - サンディア、イスレタの各プエブロ

[編集] 文化

プエブロ集落は大きな共同の建物で、それぞれの家族は建物のひとつの部屋に住んでいた。家族が大きくなったら、横に部屋が付け加えられた。タノア語ではないプエブロとヘメスの中では、部屋の所有権は主に母親から娘までの母系であった。したがって、ホピやズニ、ケレス、またはヘメスの男性が離婚したら、彼は母親か姉妹の家に移動しただろう。一方でタノア語のプエブロ(ヘメス以外)は父系であった。

ナバホコマンチェアパッチなどの部族は彼らの伝統的な敵であった。スペイン人は1692年以降、彼らの伝統的な敵を共通の敵とすることで同盟し、首尾よくニューメキシコを再征服することができた。

布を織ることはヨーロッパ人の到来以前にプエブロに知られていたが、彼らが機織りを知ったのがアステカよりも前なのか後なのかは不明である。しかし衣服は高価であったため、スペイン人の征服後にいつも装っていたというわけではなかった。腰布は珍しくはなかった。

[編集] プエブロのリスト

ニューメキシコ州のプエブロの地図
ラグナ・プエブロの住人

[編集] 外部リンク