ファニー・ブライス

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ファニー・ブライス
Fanny Brice
Fanny Brice
1920年頃
本名 Fania Borach
生年月日 (1891-10-29) 1891年10月29日
没年月日 (1951-05-29) 1951年5月29日(59歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市マンハッタン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ロサンゼルス市ハリウッド
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 コメディアン歌手女優
活動期間 1908 - 1951
配偶者 フランク・ホワイト(1910-1913離婚)
ニッキー・アーンスタイン(1918-1927離婚)
ビリー・ローズ(1929-1938離婚)
著名な家族 子:ウィリアム・ブライス(画家)
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『マイ・マン』の楽譜の表紙
ベイビー・スヌークスに扮したファニー・ブライス
1910年代のファニー・ブライス
ファニー・ブライスの墓

ファニー・ブライスFanny BriceまたはFannie Brice1891年10月29日 - 1951年5月29日)は、アメリカ合衆国コメディアンイラストレイテッド・ソングのモデル、歌手舞台女優映画女優。多くの舞台、ラジオ番組、映画に出演した。

亡くなった13年後の1964年には、バーブラ・ストライサンド主演で伝記ミュージカルファニー・ガール』が上演され、さらに映画化(『ファニー・ガール』)、ストライサンドにアカデミー主演女優賞をもたらした。1975年にはその続編『ファニー・レディ』も作られた。

生涯[編集]

1891年、マンハッタンの生まれ。出生名はFania Borach。母親のローズ(旧姓はスターン、1867年-1941年)は10歳の時にアメリカに移民したユダヤ系ハンガリー人。父親のチャールズはアルザス地域圏からの移民で酒場のオーナーをしていた。ファニーは四人兄弟の上から3番目。上の二人は1887年生まれのフィリップ、1889年生まれのキャリー、下は1893年生まれのルイス。弟のルイスはルー・ブライス(Lew Brice)という名前で俳優・ダンサー・コメディアンをしていてメイ・クラークの最初の夫でもあった[1]

1908年、ファニーは学校を中退してヴィクトリア朝のバーレスク『The Girls from Happy Land Starring Sliding Billy Watson』に出演。2年後にはフローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアと組んで、1910年と1911年にはジーグフェルド・フォリーズの主役を務めた。1921年にフォリーズで歌った『マイ・マン』は大ヒットを記録。彼女の代表曲となり、1999年にはグラミー殿堂賞英語版の栄冠に輝いた。他にも20曲以上をビクタートーキングマシン社とコロムビア・レコードから発売した。

舞台では『Sweet and Low』、ビリー・ローズ英語版の『Crazy Quilt』。映画では『My Man』(1928年、フィルムは現存していない)[2]、『Be Yourself!』(1930年)、ジュディ・ガーランドと共演した『Everybody Sing』(1938年)。フォリーズを扱った映画『巨星ジーグフェルド』(1936年)と『ジーグフェルド・フォリーズ』(1945年)には、オリジナルのフォリーズ・メンバーとしてただ一人出演した。

ラジオへの最初の出演は1930年の『Philco Hour』[3]。最初のレギュラー出演は『The Chase and Sanborn Hour』(1933年)と思われる[4]

ベイビー・スヌークス[編集]

1930年代から1951年に亡くなるまでファニーはラジオ番組でスヌークスという名前のやんちゃな赤ちゃんを演じた。元々はフォーリーズの寸劇(劇作家モス・ハート英語版が共作)で演じたもの。ラジオは1936年、CBSラジオ英語版の『The Ziegfeld Follies of the Air』内のコーナーから。赤ちゃんに悩まされる「パパ」ことランスロット・ヒギンス役はアラン・リード英語版。1937年12月からNBCの『Good News』で、またCBSに戻って『Maxwell House Coffee Time』(番組の前半はフランク・モーガンのショー、後半はファニーのコント)で演じ続けた。1944年9月、長年コント作家を務めてきたフィリップ・ラップとデイヴィッド・フリードマンに、新たにアーサー・スタンダーとエバレット・フリーマンが加わって、30分番組として一本立ちした。番組は1948年にNBCに移動。番組名は当初番組スポンサーにちなんで『Post Toasties Time』と名付けられたが、『The Baby Snooks Show』に改題。通称『Baby Snooks and Daddy』。ハンリー・スタッフォードがパパ役、リードがその雇い主ウィームッシュ氏を演じるスピンオフ版もある。スタッフォードはパパ役をもっとも長く演じた俳優でもあった。

ファニーが最初にベイビー・スヌークスを演じたのは45歳の時。またラジオ番組であったが、実際に赤ちゃんの衣装を着て芝居をした。他の共演者は、ママ役でLalive Brownell、ロイス・コルベット、アーリーン・ハリス、ジェリー役でダニー・トーマス、ルーイおじさん役でチャンーリー・カンター、ウィーミッシュ氏役でケン・クリスティ。ファニーは伝記作家ノーマン・カトコフにこう語ったことがある。「スヌークスは昔の私、私そっくり、大好きなタイプ。想像力豊かで、ひたむきで、元気いっぱい。いたずらはするけど良い子。悪気はないの。スヌークスが大好き。演じている時は彼女が本当にいるように一生懸命演じているわ。私がスヌークス。20分ばかり、ファニー・ブライスはいないの」。番組のプロデューサー・作家のエバレット・フリーマンは、ファニーはリハーサルが好きでなかったが、本番では我を忘れて役になりきっていたと証言している。「オンエア中、彼女はベイビー・スヌークスだった。さらに、番組終了から一時間経ってもまだベイビー・スヌークスだった。スヌークスの声色は消えていたが、スヌークスの気性、思考、行動はそのままだった」。

ファニー・ブライスとスタッフォードは一度だけテレビでベイビー・スヌークスとパパを演じたことがある。1950年6月のCBCテレビ『Popsicle Parade of Stars』でのことだ。これはファニーの唯一のテレビ出演でもあった。

私生活[編集]

私生活では、10代で理髪師フランク・ホワイトと結婚。ファニーが『College Girl』を巡業中だった1910年、マサチューセッツ州スプリングフィールドで知り合った。しかし、結婚は長く続かず、1913年にファニーは離婚訴訟を起こした[5]

二度目の結婚はプロのギャンブラーだったニッキー・アーンシュタイン。結婚前、アーンシュタインは盗聴の罪でシンシン刑務所に14か月服役していた。ファニーは毎週彼のところに面会に行っていた。1918年、6年間の同棲を経て結婚。しかし1924年、アーンシュタインはウォール街債権窃盗で起訴。ファニーは無実を訴え、裁判に大金を投じるが、有罪となり、アーンシュタインはレブンワース刑務所に服役した。1927年に釈放されるが9月17日、二人は離婚した。二人の間には子供が二人いて、姉のフランシス(1919年-1992年)は映画プロデューサーのレイ・スタークと結婚。スタークは後に『ファニー・ガール』を作った。また弟のウィリアム・ブライス(1921年-2008年)は抽象絵画で知られる画家となった。

1929年、ファニーはソングライターで舞台プロデューサーのビリー・ローズ英語版と結婚。『Crazy Quilt』などローズのレビューに出演するが、1938年に離婚した[6]

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1951年5月29日、ファニー・ブライスはハリウッドのシーダーズ・サイナイ・メディカルセンターにて脳出血で死亡。59歳だった[5]。同日、ファニー・ブライスの追悼として『The Baby Snooks Show』が放送され、ハンリー・スタッフォードの次の言葉で締め括られた。「私達は本物の、心優しい、素晴らしい女性を失いました」。遺体は火葬され、イーストロサンゼルスのHome of Peace Cemeteryに埋葬されたが、41年後、娘フランシスが亡くなった時に約20マイル西にあるウエストウッド・メモリアルパークに移された。そこには娘、息子、娘の婿スタークも一緒に眠っている[7]

レガシー[編集]

ファニー・ブライスは死後、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに2つ刻まれている。映画への貢献を表す「映画カメラ」はハリウッド・ブールバード6415、ラジオへの貢献を表す「マイク」はバイン・ストリート1500[8]

出典[編集]

  1. ^ Herbert G. Goldman (1992). Fanny Brice. Oxford University Press. pp. 7–10. ISBN 978-0-19-535901-5. https://archive.org/details/fannybriceorigin00gold 
  2. ^ Richard Barrios, A Song In The Dark, Oxford University Press, 1975
  3. ^ Michele Hilmes. Fanny Brice and the “Schnooks” Strategy: Negotiating a Feminine Comic Persona on the Air”. 2020--7-09閲覧。
  4. ^ Radio Digest magazine, June 1933.
  5. ^ a b “Fanny Brice Dies at the Age of 59”. The New York Times. (1951年5月30日). https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1029.html 2020年7月9日閲覧. "Fanny Brice, stage and screen comedienne and the Baby Snooks of radio, died at 11:15 A. M. today at the Cedars of Lebanon Hospital. Her age was 59. Miss Brice suffered a massive cerebral hemorrhage last Thursday morning and was rushed to the hospital from her home in Beverly Hills. She never again regained consciousness, although she was placed in an oxygen tent. ..." 
  6. ^ “Billy Rose Free to Wed Again - And So's Fannie”. Brooklyn Daily Eagle. (1938年10月27日) 
  7. ^ Fanny Brice”. FindaGrave.com. 2020年7月9日閲覧。
  8. ^ Hollywood Walk of Fame - Fanny Brice”. walkoffame.com/. Hollywood Chamber of Commerce. 2017年11月30日閲覧。

外部リンク[編集]