パオロ・ボルセリーノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

パオロ・ボルセリーノ (Paolo Borsellino 1940年1月19日1992年7月19日)はイタリアの反マフィア治安判事である。友人のジョヴァンニ・ファルコーネ治安判事らと共にマフィア撲滅に向けて活動していたが、ファルコーネがマフィアに暗殺されてから2ヶ月余りのちに車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。

伝記[編集]

1940年1月19日、ボルセリーノはパレルモ市内の貧しい地区ラ・カルサの中流家庭で生まれた。そして1962年、パレルモ大学にて法律学を学んだ彼は優秀な成績で卒業した。1963年、父の死去後、彼は裁判官試験に合格した。翌年より彼はシチリアの各都市(1965年エンナ、1967年マツァーラ・デル・ヴァッロ、1969年モンレアーレ)にて勤務した。

1968年に結婚したあとの1975年に彼はロッコ・キンニーチと共に彼の地元であるパレルモへと戻ってきた。そして、その地において、彼は彼の未完の仕事であった勢力を拡大中のシチリア・マフィアとの戦いが始まった。

1980年、彼は6つのマフィア・ファミリーの構成員を逮捕することを含む成果を挙げた。だが、同年、彼の仕事仲間であったカラビニエリ隊長エマヌエレ・バジーレがマフィアにより暗殺された。この事件以後、ボルセリーノにも警護が付けられることとなった。

その様な事件があったが、彼は同じ治安判事のジョヴァンニ・ファルコーネそしてロッコ・キンニーチらと共にマフィアについて、シチリアとイタリアでのマフィアの政治的経済的コネクションについての調査をし続けた。だが、1983年、ロッコ・キンニーチが彼の車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。彼はアントニオ・カポネットによるアンチマフィア・プールに参加した。

1986年、ボルセリーノはマルサーラのプロクレの長官となり、彼の担当区域内であり、マフィアが多く潜む町トラーパニにおいてマフィアボス達への個人的な反マフィア運動を続けた。また、パレルモにいたファルコーネの協力もあり、彼はシチリア西部での調査活動を行うことが出来た。

1987年にカポネットが病気により、アンチマフィアプールのリーダーを辞任すると、ボルセリーノは指名されなかった友人のジョヴァンニ・ファルコーネに代わり、大抗議運動のリーダーを引き継いだ。

1992年5年間に渡るマフィアとの戦いの末、ボルセリーノは親友ファルコーネが暗殺されてから2ヶ月余り後の7月19日にパレルモのヴィア・ダメリオにて自動車に仕掛けられた爆弾により死亡した。この暗殺において、護衛していた警官ら5名が命を落とした(アゴスティノ・カタラーノ、ヴァルテル・コシーナ、エマヌエラ・ロイ、ヴィンチェンツォ・リ・ムリ、クラウディオ・トライナ)。

ボルセリーノとファルコーネ両判事は、反マフィア裁判での彼らの努力を評価されて、2006年11月13日タイム・マガジンの「過去60年間のヒーロー」に選ばれた。

彼は最後となったテレビ局の取材において、1992年5月21日、インタビュアーのジャン・ピエール・モスカルドとファブリツィオ・カルヴィに、マフィアと裕福な実業家、例えば後に首相となったシルヴィオ・ベルルスコーニとマフィアとの繋がりの可能性について語った。 このインタビュー映像は、不可解なことにイタリア国内のテレビ局で放送されることは余りなかった。 2007年現在までに、そのインタビュー映像はオリジナル版で50分のところを30分に編集されて、2000年に衛星チャンネルのRaiNews 24においてたった一度だけしか放送されなかった。

シチリアのコルレオーネ・マフィアのボスである"トト"・リイナは現在、ボルセリーノとファルコーネ暗殺を含む多くの罪を犯した結果、終身刑に服している。

今日、パオロ・ボルセリーノは、1980年代から90年代にかけてマフィアの手により暗殺された治安判事の中で最も重要な人物の1人と考えられている。そして、彼は反マフィア運動を象徴するもののうちのひとつとして人々の記憶に残っている。

多くの学校及び公共施設は彼の名にちなんで名付けられた。また、パレルモ国際空港はファルコーネ・ボルセリーノ空港と名を変え、地元の彫刻家であるトンマーゾ・ゲラシによる記念碑が建てられている。

彼の妹、リタ・ボルセリーノは2006年にシチリアの知事選挙に中道左派で立候補、地域での予備選挙には勝利したが、現職のサルヴァトーレ・カッファーロに敗北した。

外部リンク[編集]