テオ・ファン・ドゥースブルフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
テオ・ファン・ドゥースブルフ
Theo van Doesburg
『自画像』
本名 Christiaan Emil Marie Küper
生誕 1883年8月30日
オランダの旗 オランダ ユトレヒト
死去 1931年3月7日(47歳)
スイスの旗 スイス ダボス
国籍 オランダの旗 オランダ
分野 絵画建築
芸術動向 デ・ステイルConcrete art要素主義ダダイスム
テンプレートを表示


テオ・ファン・ドゥースブルフ[1]Theo van Doesburg,1883年8月30日-1931年3月7日。本名はChristiaan Emil Marie Küper)は、オランダ画家建築家美術家I・K・ボンセット(I. K. Bonset)、アルド・カミーニ(Aldo Camini)などの筆名も用いた。

経歴[編集]

オランダのユトレヒトに生まれる。父親は写真家。

1917年ライデンにて、ピエト・モンドリアン、バート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck, 1876年-1958年)らとともにデ・ステイルを結成し、同名の雑誌を刊行(1928年まで)。新造形主義抽象絵画(非具象芸術)の普及に努める。

1920年代初頭にはバウハウスと交流し、講師にはなれなかったが、自身の思想をバウハウスに浸透させることに成功した。

1923年にはコーネリアス・ファン・エーステレンと共同でデ・ステイル建築計画案を発表している。また、1920年代を通じ、構成主義者(エル・リシツキーなど)やダダイストトリスタン・ツァラハンス・アルプ)などと幅広く交流し、その間の橋渡しも行った。

1920年代半ばには、要素主義を導入し、モンドリアンと対立、モンドリアンは、デ・ステイルを離脱した。

1931年、オーギュスト・エルバン(Auguste Herbin; 1882年-1960年)、ジョルジュ・ファントンゲルロー(Georges Vantongerloo, 1886年-1965年)らに協力して、パリで、「アプストラクシオン=クレアシオン(抽象=創造)」(Abstraction-Creation)の創立に参加するも(なお、アプストラクシオン=クレアシオンには、モンドリアンも参加し、交流が復活していた)、同年急逝。

著書『新しい造形芸術の基礎概念』が訳されている。(宮島久雄訳、<バウハウス叢書6>中央公論美術出版、1993年) 

参考文献[編集]

  1. ^ 崔在錫「テオ・ファン・ドゥースブルフの言説からみた建築造形概念」、1992年
  • Baljeu, Joos. Theo van Doesburg. Studio Vista: 1974, ISBN 0-289-70358-1.
  • Hoek, Els, Marleen Blokhuis, Ingrid Goovaerts, Natalie Kamphuys, et al. Theo Van Doesburg: Oeuvre Catalogus. Centraal Museum: 2000. ISBN 90-6868-255-5.
  • Overy, Paul. De Stijl. Studio Vista: 1969. ISBN 0-289-79622-9.
  • White, Michael: De Stijl and Dutch modernism. Manchester University Press: 2003. ISBN 0-7190-6162-8.