チャールズ・コーツワース・ピンクニー

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チャールズ・コーツワース・ピンクニー

チャールズ・コーツワース・ピンクニーCharles Cotesworth Pinckney1746年2月25日1825年8月16日)は、アメリカ政治家である。連邦党の有力者として活躍した。外交官軍人トマス・ピンクニーは弟。また、政治家・法律家のチャールズ・ピンクニーは従弟である。

生涯[編集]

1746年、サウスカロライナ植民地 チャールストンにて生誕。父はサウスカロライナ州の司法長官を務めた政治家チャールズ・ピンクニー(上記のチャールズ・ピンクニーとは別人)、母はプランテーションの経営者エリーザ・ルーカス(Eliza Lucas Pinckney)。

幼少期にイギリスへ渡り、オックスフォード大学に入学。また、フランスカーンでは陸軍士官学校で学んだ。1769年にアメリカに戻ったピンクニーは、故郷チャールストンで弁護士として身を立てた。

アメリカ独立戦争の際には、大佐として従軍した。ブランディワインの戦いジャーマンタウンの戦いにおける戦闘でジョージ・ワシントンの副官を務めるが、いずれも敗退。1777年ジョージア州へ遠征し、サヴァナ攻撃を行うが、1780年にチャールストンが陥落すると、イギリス軍の捕虜となる(– 1782年)。解放後の1783年准将に昇進した。

1887年には合衆国憲法制定会議の一員に選出され、奴隷制廃止に反対すると共に、宗教審査を禁止する条項の明文化に尽力した。

1796年、ピンクニーは駐仏公使に任命されたが、フランス総裁政府はこれを拒否。外相タレーランは代理人を通じ、国交正常化交渉開始の代償として、賄賂借款を供与するようほのめかした(XYZ事件)。このことが原因で、米仏間に宣戦布告なき海戦が行われた(擬似戦争)。

1800年に副大統領選に、また1804年1808年には大統領選に出馬したが、いずれも果たさなかった。

外部リンク[編集]

外交職
先代
ジェームズ・モンロー
在フランスアメリカ合衆国全権公使
1796年9月9日 - 1797年2月5日
次代
ロバート・リビングストン