ブランディワインの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ブランディワインの戦い
PhiladelCampaignHessianMap.jpg
フィラデルフィア方面作戦に関するドイツ兵の地図
戦争アメリカ独立戦争
年月日1777年9月11日
場所ペンシルベニア州チャズフォード近辺
結果:英国軍の大勝
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ大陸軍 イギリスの旗 イギリス軍
指揮官
ジョージ・ワシントン ウィリアム・ハウ
戦力
14,600[1] 15,500[1]
損害
戦死 300
負傷 600
捕虜 400[2]
戦死 89
負傷 488
不明 6[1]
アメリカ独立戦争

ブランディワインの戦い(ブランディワインのたたかい、: Battle of Brandywine、またはブランディワイン川の戦い)は、アメリカ独立戦争中のフィラデルフィア方面作戦の一部として、1777年9月11日ペンシルベニア州デラウェア郡チャズフォード近辺とブランディワイン川で行われた大陸軍イギリス軍との間の戦闘である。戦いはイギリス軍の大勝に終わり、アメリカ革命政府の首都であるフィラデルフィア市の防御が無くなった。イギリス軍は9月26日にフィラデルフィアを占領し、それは1778年6月まで続くことになった

背景[編集]

1777年7月下旬に、ニュージャージー海岸のサンディフックから34日間もの悲惨な旅の後で、イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍麾下17,000名ほどの軍隊が260隻以上の艦隊でメリーランド州エルク川河口に上陸した。そこはチェサピーク湾の北の奥、現在のエルクトン近くであり、フィラデルフィアの約40マイルないし50マイル (60~80 km) 南西にあたる。細い河口が浅く泥が多かったために上陸は難渋を極めた。

ジョージ・ワシントン将軍は約20,600名の大陸軍をエルク川河口とフィラデルフィアの間に置いていた。大陸軍はイギリス軍の上陸を北東に約9マイル (14 km) ほど離れたアイアンヒルから偵察することができた。上陸に手間取ったハウ軍は通常のキャンプも張らずに進軍を始めた。その結果ワシントンは正確に敵の勢力を掴めなかった。

ワシントンは、クッチ橋での小競り合いやニューポートに近いレッドクレイ・クリーク沿いの防御的宿営地を慌てて放棄した後で、イギリス軍に対抗するために最終的にチャズフォード(フォード(ford)は浅瀬)近くの高台を選んだ。チャズフォードはボルティモアとフィラデルフィアを結ぶ道路をブランディワイン川が横切る要衝だった。9月9日、ワシントンはここで戦闘が起こることを期待して、チャズフォードの上下流の浅瀬を守るように部隊を配置した。チャズフォードの数百ヤード南のパイルズフォードには約1,000名のペンシルベニア民兵を率いたジョン・アームストロング将軍を置き、そこからチャズフォードにかけてはアンソニー・ウェイン将軍とナサニエル・グリーン将軍の師団を配置した。ジョン・サリバン将軍の師団はブランディワイン川の東岸に沿って北に展開し、アダム・スティーブン将軍とスターリング将軍の部隊とともにチャズフォードの北の高台を守った。さらに川の上流ではモーゼス・ヘイズン大佐の旅団がバッフィントンフォードとウィスターズフォードを守った。ワシントンはこれで十分だと思っていた。

イギリス軍はケネットスクェアの近くに集結した[3]。ハウは準備の整った大陸軍に全面的な戦いを仕掛けようとは考えていなかった。その代わりにロングアイランドの戦いで用いたような側面攻撃を採用した。ヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン指揮下の約5,000名の部隊がチャズフォードでワシントンの軍と向き合う。一方で、チャールズ・コーンウォリス指揮下の残りの部隊は北のトリンブルズフォードでブランディワイン川西支流を渡り、続いて東のジェフェリスフォード(ここはワシントンが見過ごしていた)で東支流を渡り、そこから南下して大陸軍の側面を攻撃する、という作戦だった[4]

戦闘[編集]

9月11日の朝は深い霧に包まれていたので、イギリス軍の動きを見えなくしていた。ワシントンはイギリス軍の動きについてまるで反対の報告を受けていたので、イギリス軍の主力がチャズフォードを攻めてくるものと信じていた。午後2時頃イギリス軍が大陸軍の右手に現れた。ヘイズンの旅団が側面を衝かれサリバン、スティーブン、およびスターリングの部隊が右手に現れた予期せぬイギリス軍に対抗するために部隊の配置を変えようとした。しかしハウは攻撃を急がなかったので、大陸軍はチャズフォードの北約1マイル (1.6 km) にあるバーミンガム集会所のある高台に兵士を配置する時間ができた。4時までにイギリス軍は攻撃の矛先を交わしていたスティーブンとスターリングの師団を攻撃し、両部隊とも急速に崩れた。サリバンは集会所の丘近くのスターリング隊の側面を衝こうとしていたドイツ人傭兵部隊の一隊を攻撃し、スターリング隊の大半が撤退できるように時間を稼いだ。しかし、サリバンの部隊はイギリス軍の反撃にあって撤退を余儀なくされた。

この時点で、ワシントンとグリーンの援軍が既に集会所の丘を占拠したイギリス軍を止めるために到着した。サリバン、スティーブン、およびスターリング師団の残党は追撃するイギリス軍に対し1時間近く持ちこたえたが遂に撤退した。砲兵隊の馬がほとんど全て殺されたために、大陸軍は集会所の丘に多くの大砲を残していくしかなかった。

今日の戦場跡、集会所の丘の南

クニプハウゼンはチャズフォードを渡り、ブランディワイン川の東岸で弱体化した大陸軍中央を攻撃し、マクスウェルとウェインの師団を撤退させ、その大砲を残して行かざるを得ないようにした。アームストロングの民兵隊は戦闘に参加することなくその陣地からの撤退を決めた。はるか北方では、グリーンがウィードン大佐の部隊を送って、大陸軍の他部隊の撤退時間を稼ぐためにディルワース郊外の道を守らせ、イギリス軍を止めた。暗闇が訪れるとイギリス軍の追撃も緩み、ウィードン隊も撤退できた。敗軍の大陸軍はチェスターまで撤退した。大半がそこに到着したのは真夜中であり、その後も翌朝まで逃げてきた者の到着が続いた。

損失[編集]

この戦闘でイギリス軍の公式な損失は総計587名となっている。93名が戦死し(士官8名、下士官7名、兵卒78名)、488名が負傷した(士官49名、下士官40名、鼓手4名、兵卒395名)。また6名は行方不明となった[2]。イギリス軍の損失のうち40名だけはドイツ人傭兵だった[5]。歴史家のトマス・J・マクガイアは「アメリカ人によるイギリス軍損失の推計は2,000名にもなっており、遠くからの観察や大雑把で信頼できない報告に基づいていた」と記している[2]

ブランディワインの戦いでの大陸軍の損失については公式のものにしろそうでないにしろ報告が公表されたことは無かった。その証言の大半はイギリス軍側のものだった。イギリス軍士官による当初の報告の一つでは、大陸軍の損失を200名以上の戦死、約750名の負傷、および400名が負傷せずに捕虜になっていた。ハウ将軍の参謀の一人は、400名の反乱者が勝利側によって戦場で埋葬されたと主張した[6]。別のイギリス軍士官は「敵は戦場で502名が戦死した」と記した[2]。ハウ将軍がイギリスの陸軍大臣ジョージ・ジャーメインに送った報告書では、大陸軍は「約300名が戦死、600名が負傷、および400名近くが捕虜になった」と言っていた[2]

大陸軍のナサニエル・グリーン将軍によるある程度確かな数字では、ワシントン軍が1,200名ないし1,300名を失ったと推計していた[7]

大陸軍の350名の負傷兵は9月14日に、ディルワースのイギリス軍宿営地からウィルミントンに新しく作られた病院に移された[8]。このことは、ハウが報告した「400名近い」捕虜のうち約40名だけが無傷で降伏したことを示唆している。

仮にグリーン将軍の大陸軍損失総計が正確なものであるとすれば、1,160名ないし1,260名の兵士が戦場で戦死または負傷となる。イギリス軍は大陸軍の大砲14門のうち11門も捕獲した。

戦闘の後[編集]

第7ペンシルベニア連隊旗、ブランディワイン軍旗と呼ばれるようになった

ハウは大陸軍を打ち破ったが、予想していなかった抵抗によって大陸軍を完璧に叩くことができなかった。大陸軍の意気が落ちなかったのである。この戦闘では負けても、大陸軍はまだ後日にイギリス軍と戦う気力を持ち続けた。大陸軍は指揮官もだめなことが自覚できた。ワシントンは右翼をがら空きにするという大きな誤りを犯した。サリバン、スターリング、およびスティーブンの師団の暫くの奮戦がなかったら完璧にやられていたかもしれない。ハウは大陸軍の右翼を衝くことに時間を使いすぎて、彼に殺し屋の本能がないことを証明してみせた。彼は2年前のバンカーヒルの戦いで勝利したときも犠牲が大きかったので、今回もそれを恐れ、大半の大陸軍を逃がしてしまった。

その後の両軍は、9月20日から21日にかけての夜に起こったパオリの虐殺のような小競り合いに終止した。

大陸会議はフィラデルフィアを放棄し、まず1日のみランカスターに、続いてヨークに移った。大陸軍の物資は9月26日にレディングに移された。イギリス軍は9月26日に抵抗されることなくフィラデルフィア市内に入った。

脚注[編集]

  1. ^ a b c Philadelphia 1777: Taking the Capital, Clement pg. 23
  2. ^ a b c d e McGuire, Thomas J.; The Philadelphia Campaign: Volume 1: Brandywine and the Fall of Philadelphia; Stackpole Books; Mechanicsburg, Pennsylvania; 2006; ISBN 978-0-8117-0178-5; ISBN 0-8117-0178-6, page 269
  3. ^ 北緯39度50分39秒 西経75度42分38秒 / 北緯39.84417度 西経75.71056度 / 39.84417; -75.71056 (ケネットスクェア(Kennett Square))
  4. ^ Cornwallis's March: Driving Tour of the Brandywine Battlefield Region”. Brandywine Battlefield Historic Site. 2009年9月4日閲覧。 Trimble's Ford is located at 北緯39度55分23秒 西経75度41分13秒 / 北緯39.923度 西経75.687度 / 39.923; -75.687 (トリンブルズフォード(Trimble's Ford)). Jefferis Ford is located at 北緯39度56分20秒 西経75度38分10秒 / 北緯39.939度 西経75.636度 / 39.939; -75.636 (ジェフェリスフォード(Jefferis Ford))
  5. ^ Martin, David G.; The Philadelphia Campaign June 1777-July 1778; Combined Books; Conshohocken, Pennsylvania; 1993; ISBN 0-938289-19-5, page 76
  6. ^ Martin, page 76
  7. ^ Boatner, Mark Mayo, Cassell’s Biographical Dictionary of the American War of Independence 1763?1783, Cassell, London, 1966, ISBN 0 304 29296 6, page 109
  8. ^ McGuire, page 278

参考文献[編集]

  • Fortescue, John. History of the British Army.
  • McGuire, Thomas J. Brandywine Battlefield Park: Pennsylvania Trail of History Guide. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2001.
  • McGuire, Thomas J. The Philadelphia Campaign, Vol. I: Brandywine and the Fall of Philadelphia. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2006.
  • Bruce Mowday. September 11, 1777: Washington's Defeat at Brandywine Dooms Philadelphia. White Mane Publishers.
  • Ward, Christopher. The War of the Revolution.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]