ガイウス・アウィディウス・カッシウス

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ガイウス・アウィディウス・カッシウスラテン語: Gaius Avidius Cassius , 130年頃 - 175年7月)は、ローマ帝国五賢帝時代の軍人。マルクス・アウレリウス・アントニヌスに反乱を起こしたことで知られる。

略歴[編集]

カッシウスはキュロス(Cyrrhus)の出身で、ガイウス・アウィディウス・ヘリオドルス(Gaius Avidius Heliodorus)の息子であった。

マルクス・アウレリウス帝の下で軍事経験を重ねた。パルティアとの戦争では、セレウキアクテシフォンを陥落させる功績を挙げて元老院議員の地位を得た。166年、カッシウスはシリア属州総督に就き、172年にはエジプトで発生したブコリ(Bucoli)による反乱を鎮圧した。

175年、カッシウスはマルクス・アウレリウスが死去したとの知らせを受けて、ローマ皇帝への即位を宣言したが、未だマルクスは生存しており、勇み足であった。病気がちであったマルクスが危篤に陥っているとカッシウスが思い込んでいたところへ、マルクスの妻・小ファウスティナが年若い息子コンモドゥスを守護するために、カッシウスが皇帝即位を宣言を後押ししたともされる。マルクスが生存していたのを知った後も、カッシウスは引き続きマルクスへの反乱を収めなかった。

マルクスは、当時マルコマンニ戦争に従事していた。当初は従っている軍人にカッシウスの反乱の件を内緒にしようとしたが、やがて一般に知られるところとなり、ローマ元老院はカッシウスを国家の敵とする決議を可決した。

175年4月にカッシウスは兵を挙げて、ローマ帝国東部を抑えたが、重要な穀倉地帯であるアエギュプトゥスの支持を得ることが出来なかった。カッパドキア属州総督マルティウス・ウェルスはマルクス・アウレリウスに従って、カッシウスを攻撃した。結局、カッシウスは自軍内のケントゥリオ(百人隊長)によって殺害された。カッシウスの首はマルクスの下へ送られたが、マルクスは首実検を断り、すぐに埋葬するように命じた。