「加藤みどり (小説家)」の版間の差分
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'''加藤 みどり'''(かとう みどり、[[1888年]]([[明治]]21年)[[8月31日]] - [[1922年]]([[大正]]11年)[[5月1日]])は、明治・[[大正]]期の[[小説家]]。本名は'''きくよ'''。月刊誌「[[青鞜]]」の社員であった。 |
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[[1888年]](明治21年)[[8月31日]]、[[長野県]][[上伊那郡]][[赤穂村]](現[[駒ヶ根市]])にて、[[医師]]の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。[[1899年]](明治32年)[[12月11日]]、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。 |
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文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った[[狂歌]]のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「[[新小説]]」「[[早稲田文学]]」「[[明星 (文芸誌)|明星]]」などの[[文芸雑誌]]や、[[与謝野晶子]]、[[島崎藤村]]などを愛読した。<ref name="作家と文学">岩田ななつ「『青鞜』における作家と文学」(2001年)</ref> |
文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った[[狂歌]]のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「[[新小説]]」「[[早稲田文学]]」「[[明星 (文芸誌)|明星]]」などの[[文芸雑誌]]や、[[与謝野晶子]]、[[島崎藤村]]などを愛読した。<ref name="作家と文学">岩田ななつ「『青鞜』における作家と文学」(2001年)</ref> |
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[[1906年]](明治39年)2月、[[東京]]の学校に進学した弟妹の世話をするため上京。一軒家を借りて「高仲商店」を営む傍ら、[[徳田秋声]]に師事し、小説を書き始める。[[1907年]](明治40年)1月には、「[[女子文壇]]」に小説「愛の花」が掲載されたほか、同年6月に創刊された[[河井酔茗]]主宰の「詩人」社友となる。「詩人」の誌友には[[早稲田大学]][[英文科]]の学生であった[[加藤朝鳥]](本名・信正)がおり、みどり20歳の頃、巻紙3間の長い恋文を送られ求婚される。<ref name="人物事典">らいてう研究会編「『青鞜』人物事典 ―110人の群像―」(2001年、[[大修館書店]])</ref> |
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大阪時代から朝鳥と共に[[演劇]]活動に熱中し、[[女優]]として舞台に立つようになっていた。[[1913年]]( |
大阪時代から朝鳥と共に[[演劇]]活動に熱中し、[[女優]]として舞台に立つようになっていた。[[1913年]](大正2年)4月には[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イェイツ]]の詩劇「幻の海」の主演として、女王デクトラを演じた。11月、近代劇協会の機関誌「近代」の編集を引き受けた朝鳥と共に東京へ戻り、青鞜社ではみどり帰京歓迎会が開かれる。12月2日からは「[[鷺城新聞]]」に小説「呪ひ」の掲載も始め、翌年1月12日までに全41回連載した。<ref name="人物事典" /> |
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一方で、演劇雑誌「近代」は1号で廃刊となる。職を失った夫に代り、みどりは[[1914年]]( |
一方で、演劇雑誌「近代」は1号で廃刊となる。職を失った夫に代り、みどりは[[1914年]](大正3年)3月、[[東京日日新聞社]]に入社。探訪記者として働く傍ら、「青鞜」への小説の寄稿も続けたが、体調を崩し秋頃には退社した。 |
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[[1916年]](大正5年)には、[[石丸梧平]]主宰の家庭雑誌「団欒」に小説「漂浪の児」を連載する<ref name="団欒">[[宮﨑尚子]], 「[https://doi.org/10.24577/seia.2017.49_01 石丸梧平主宰の家庭雑誌『団欒』に関する調査⑥]」『尚絅大学研究紀要 A.人文・社会科学編』 2017巻 49号 2017年 p.01-08, 尚絅大学研究紀要編集部会, {{doi|10.24577/seia.2017.49_01}} - 現存する「団欒」は18冊しか確認されておらず、「漂浪の児」の全貌も不明。</ref>。翌[[1917年]](大正6年)12月からは「[[世界新聞]]」に小説「咲く花」の連載を始めるが、翌[[1918年]]([[大正]]7年)、2月10日の57回目で中絶。11日、長女・葵が誕生する。[[1919年]](大正8年)11月、15日から21日まで、[[読売新聞]]の婦人欄におとぎばなし「ブラ公と茶目さん」を連載した。<ref name="人物事典" /> |
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[[1920年]](大正9年)9月、放浪生活に憧れた朝鳥は[[爪哇日報]]主筆として[[ジャワ島]]へ出立、みどりは子供2人と共に鳥取県[[東伯郡]][[社村 (鳥取県東伯郡)|社村]]大字不入岡の朝鳥の実家に滞在。しかし10月、[[子宮癌]]を発病。子を残して郷里へ帰り、みどりの父・泰一は、治る見込みのないことを幾度も朝鳥へ書き送った。<ref name="青鞜の女">岩田ななつ「青鞜の女 加藤みどり」(1993年、[[青弓社]])</ref> |
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[[1922年]](大正11年)5月1日、死去。享年33歳であった。 |
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== 著書 == |
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これまでに、みどりの著作が単独で出版されたことはない。但し[[1912年]]( |
これまでに、みどりの著作が単独で出版されたことはない。但し[[1912年]](明治45年)4月に「青鞜」に発表された「執着」が、[[1913年]]([[大正]]2年)に青鞜社編「青鞜小説集」(東雲堂)に収められ、以来、度々再刊されている。 |
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* 青鞜社編「青鞜小説集」(1913年、東雲堂)「執着」を収録。 |
* 青鞜社編「青鞜小説集」(1913年、東雲堂)「執着」を収録。 |
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* 青鞜社編「青鞜小説集(叢書『青鞜』の女たち・第7巻)」(1986年、 |
* 青鞜社編「青鞜小説集(叢書『青鞜』の女たち・第7巻)」(1986年、不二出版)「執着」を収録。東雲堂版の復刻。 |
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* [[尾形明子]]編「『新編』日本女性文学全集(第4巻)」([[菁柿堂]]、2012年)「執着」を収録。2012年、[[六花出版]]より復刻。 |
* [[尾形明子]]編「『新編』日本女性文学全集(第4巻)」([[菁柿堂]]、2012年)「執着」を収録。2012年、[[六花出版]]より復刻。 |
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* 青鞜社編「青鞜小説集([[講談社文芸文庫]])」(2014年、[[講談社]])「執着」を収録。 |
* 青鞜社編「青鞜小説集([[講談社文芸文庫]])」(2014年、[[講談社]])「執着」を収録。不二出版版を底本とする。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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2020年5月9日 (土) 06:51時点における版
加藤みどり | |
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ペンネーム | 加藤 みどり |
誕生 |
高仲 きくよ 1888年8月31日 長野県上伊那郡赤穂村 |
死没 |
1922年5月1日(33歳没) 東京府北豊島郡高田町 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 赤穂尋常小学校高等科卒業 |
ジャンル | 小説、詩、評論 |
代表作 |
『執着』(1912年) 『呪ひ』(1913年) 『卜者の言葉』(1914年) |
配偶者 | 加藤朝鳥 |
子供 | 水城、なつき、葵 |
所属 | 青鞜社、東京日日新聞社 |
ウィキポータル 文学 |
加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月31日 - 1922年(大正11年)5月1日)は、明治・大正期の小説家。本名はきくよ。月刊誌「青鞜」の社員であった。
生涯
1888年(明治21年)8月31日、長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)にて、医師の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。1899年(明治32年)12月11日、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。
文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った狂歌のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「新小説」「早稲田文学」「明星」などの文芸雑誌や、与謝野晶子、島崎藤村などを愛読した。[1]
1906年(明治39年)2月、東京の学校に進学した弟妹の世話をするため上京。一軒家を借りて「高仲商店」を営む傍ら、徳田秋声に師事し、小説を書き始める。1907年(明治40年)1月には、「女子文壇」に小説「愛の花」が掲載されたほか、同年6月に創刊された河井酔茗主宰の「詩人」社友となる。「詩人」の誌友には早稲田大学英文科の学生であった加藤朝鳥(本名・信正)がおり、みどり20歳の頃、巻紙3間の長い恋文を送られ求婚される。[2]
1909年(明治42年)、仲人役を朝鳥と同郷の生田長江に依頼して、大学を卒業した朝鳥と結婚(戸籍上では明治43年7月5日)。[1]翌年9月1日には長男・水城が誕生する。
1911年(明治44年)、大阪新報に新聞記者の職を得た朝鳥と共に大阪へ転居。その後間もなく「青鞜」の発刊を知り、岩野清子(岩野泡鳴の妻)の紹介で、社員として創刊に参加(平塚らいてうの自伝より)。1巻4号に「高窓の下」を発表したのを初めとして、5年間に渡り、12篇の小説、4篇の感想を寄稿した。[2]
大阪時代から朝鳥と共に演劇活動に熱中し、女優として舞台に立つようになっていた。1913年(大正2年)4月にはイェイツの詩劇「幻の海」の主演として、女王デクトラを演じた。11月、近代劇協会の機関誌「近代」の編集を引き受けた朝鳥と共に東京へ戻り、青鞜社ではみどり帰京歓迎会が開かれる。12月2日からは「鷺城新聞」に小説「呪ひ」の掲載も始め、翌年1月12日までに全41回連載した。[2]
一方で、演劇雑誌「近代」は1号で廃刊となる。職を失った夫に代り、みどりは1914年(大正3年)3月、東京日日新聞社に入社。探訪記者として働く傍ら、「青鞜」への小説の寄稿も続けたが、体調を崩し秋頃には退社した。
1916年(大正5年)には、石丸梧平主宰の家庭雑誌「団欒」に小説「漂浪の児」を連載する[3]。翌1917年(大正6年)12月からは「世界新聞」に小説「咲く花」の連載を始めるが、翌1918年(大正7年)、2月10日の57回目で中絶。11日、長女・葵が誕生する。1919年(大正8年)11月、15日から21日まで、読売新聞の婦人欄におとぎばなし「ブラ公と茶目さん」を連載した。[2]
1920年(大正9年)9月、放浪生活に憧れた朝鳥は爪哇日報主筆としてジャワ島へ出立、みどりは子供2人と共に鳥取県東伯郡社村大字不入岡の朝鳥の実家に滞在。しかし10月、子宮癌を発病。子を残して郷里へ帰り、みどりの父・泰一は、治る見込みのないことを幾度も朝鳥へ書き送った。[4]
1921年(大正10年)8月10日頃、朝鳥は帰国。みどりは朝鳥に付き添われて上京し、浅草区小島町楽山堂病院に入院した。のち、死期が近いと聞かされた朝鳥は、病院ではなく家で死なせたいと、高田町に借りた家へみどりを移した。[4]
1922年(大正11年)5月1日、死去。享年33歳であった。
著書
これまでに、みどりの著作が単独で出版されたことはない。但し1912年(明治45年)4月に「青鞜」に発表された「執着」が、1913年(大正2年)に青鞜社編「青鞜小説集」(東雲堂)に収められ、以来、度々再刊されている。
- 青鞜社編「青鞜小説集」(1913年、東雲堂)「執着」を収録。
- 青鞜社編「青鞜小説集(叢書『青鞜』の女たち・第7巻)」(1986年、不二出版)「執着」を収録。東雲堂版の復刻。
- 尾形明子編「『新編』日本女性文学全集(第4巻)」(菁柿堂、2012年)「執着」を収録。2012年、六花出版より復刻。
- 青鞜社編「青鞜小説集(講談社文芸文庫)」(2014年、講談社)「執着」を収録。不二出版版を底本とする。