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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[縄文土器]]が発見されていることから、この地には[[縄文時代]]から人が生活していることが分かっている<ref name="higashi2">[http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/111011.html 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物] - 大阪歴史博物館</ref><ref>大阪市博物館協会大阪文化財研究所(編)『三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告』大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2013年[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025097616-00 ]</ref>。『[[続日本紀]]』に記載のある「大隅媛島二牧」は、『[[日本書紀]]』「[[安閑天皇|安閑]]二年条」では「大隅島媛島」と表現されており、島が牧として利用されていたことがうかがえる。大隅島は、『摂津志』が大隅宮を「在西大道村」と比定して以来、吹田砂堆の中央部がこれに当たると考えられてきた。西大道村は旧名を大隅・大内・三宝寺と呼称したとされるため、これに従えば神崎川と淀川で区切られた砂堆を「島」と呼んでいたことになる<ref>阪田育功・辻本武(編)『崇禅寺遺跡』(大阪府埋蔵文化財調査報告 2002-4)大阪府教育委員会、2003年、p.2[http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/p/475/item/4745?detail=true&include_file=exclude&sort=id]</ref>。
[[縄文土器]]が発見されていることから、この地には[[縄文時代]]から人が生活していることが分かっている<ref name="higashi2">[http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/111011.html 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物] - 大阪歴史博物館</ref><ref>大阪市博物館協会大阪文化財研究所(編)『三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告』大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2013年[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025097616-00]</ref>。『[[続日本紀]]』に記載のある「大隅媛島二牧」は、『[[日本書紀]]』「[[安閑天皇|安閑]]二年条」では「大隅島媛島」と表現されており、島が牧として利用されていたことがうかがえる。大隅島は、『摂津志』が大隅宮を「在西大道村」と比定して以来、吹田砂堆の中央部がこれに当たると考えられてきた。西大道村は旧名を大隅・大内・三宝寺と呼称したとされるため、これに従えば神崎川と淀川で区切られた砂堆を「島」と呼んでいたことになる<ref>阪田育功・辻本武(編)『崇禅寺遺跡』(大阪府埋蔵文化財調査報告 2002-4)大阪府教育委員会、2003年、p.2[http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/p/475/item/4745?detail=true&include_file=exclude&sort=id]</ref>。


また、中世には[[三宝寺]]という寺院が存在していたと考えられている<ref>西岡秀爾「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/2/55_2_1007/_pdf 摂津中嶋三宝寺とその周辺]}}」『印度學佛教學研究』55巻2号、日本印度学仏教学会、1997年</ref>。[[12世紀]]末に[[大日房能忍]]が[[達磨宗]]([[禅]]宗)を弘通するために創建した寺院で広大な伽藍を有した。[[16世紀]]半ばに周辺が戦場となったため寺が廃絶したと考えられているが、明確な経緯は不明である。
また、中世には[[三宝寺]]という寺院が存在していたと考えられている<ref>西岡秀爾「[https://doi.org/10.4259/ibk.55.1007 摂津中嶋三宝寺とその周辺]」『印度學佛教學研究』 2007年 55巻 2号 p.1007-1004,1288, {{doi|10.4259/ibk.55.1007}}、日本印度学仏教学会</ref>。[[12世紀]]末に[[大日房能忍]]が[[達磨宗]]([[禅]]宗)を弘通するために創建した寺院で広大な伽藍を有した。[[16世紀]]半ばに周辺が戦場となったため寺が廃絶したと考えられているが、明確な経緯は不明である。


中世以降、この地は乳牛牧荘と呼ばれ<ref name="higashiyodo"/>、大道村(南大道村)、三宝寺村(西大道村)、辻堂村(北大道村)などがあった<ref>井上正雄『大阪府全志』大阪府全志発行所1922年[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965798]</ref>。また。大桐5丁目の大隅神社境内にある石碑には以下のような文章が記載されている。
中世以降、この地は乳牛牧荘と呼ばれ<ref name="higashiyodo"/>、大道村(南大道村)、三宝寺村(西大道村)、辻堂村(北大道村)などがあった<ref>井上正雄、[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965798 大阪府全志. 巻之1]」『大阪府全志』 1922年, {{doi|10.11501/965798}}、大阪府全志発行所</ref>。また。大桐5丁目の大隅神社境内にある石碑には以下のような文章が記載されている。


{{quotation|摂州西成郡北中嶋之内、'''乳牛牧の荘'''とも呼ばれたこの地域に大道村・辻堂村・三宝寺村があり、これら3村の氏神として賀茂大明神・稲荷神・山王神を三社相殿(本社)に、祇園・伊勢・春日・八幡・天神を五神相殿(末社)に祀り、賀茂大明神社の境内にあった真言宗[[無本寺 (大阪市)|無本寺]]の僧が祭祀を兼帯し、上記3村は南大道村・北大道村・西大道村とも呼ばれ、まとめて'''三大道'''と称されました。慶長12年、無本寺は[[三大院]]と改め、真言・禅宗の[[社僧]]は法祐坊から全良和尚まで8代続きました。貞亨3年、玄光和尚は[[大道寺 (大阪市東淀川区)|大道寺]]と改め、三世雲門和尚は[[竹凉菴]]を起こし、修行僧は100人を超すときもあり、禅修行と神社の維持・祭祀を受け継いできました。([[乳牛山大道寺]]年譜参照)  大道寺十三世のとき明治維新を迎え、大道寺・竹凉菴を廃し明治6年、賀茂大明神社は[[大隅神社]]と改められました。此碑より北50メートルの飛地に大道寺の墓地が現存します。}}
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[[江戸時代]]における日本全国の村落の実情を把握するために、[[明治]]時代初期に政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)によると、
[[江戸時代]]における日本全国の村落の実情を把握するために、[[明治]]時代初期に政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)によると、
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となっており、村によって領主が異なっていた。
となっており、村によって領主が異なっていた。


『大阪府全志』巻之三によると、大道村は[[1889年]](明治22年)に西大道村、南大道村、北大道村の3村が合併して成立した<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之三、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2017年4月}}
『大阪府全志』巻之三によると、大道村は[[1889年]](明治22年)に西大道村、南大道村、北大道村の3村が合併して成立した<ref>井上正雄『大阪府全志』巻之三、大阪府全志発行所、1922年{{要ページ番号|date=2017年4月}}</ref>。その後、大道村大字西大道、大道村大字南大道、大道村大字北大道となった。つまり、それ以降は、西成郡大道村となった<ref name="kado">『[[角川日本地名大辞典]] 27-1 大阪府 総説・地名編』角川学芸出版、2009年、p.699</ref>。
</ref>。その後、大道村大字西大道、大道村大字南大道、大道村大字北大道となった。つまり、それ以降は、西成郡大道村となった<ref name="kado">『[[角川日本地名大辞典]] 27-1 大阪府 総説・地名編』角川学芸出版、2009年、p.699</ref>。


1925年(大正14年)東淀川区への合併に伴い、北大道・西大道・南大道・東大道が町名となった<ref name="kado"/>。
1925年(大正14年)東淀川区への合併に伴い、北大道・西大道・南大道・東大道が町名となった<ref name="kado"/>。
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== 交通機関 ==
== 交通機関 ==
*[[大阪市高速電気軌道今里筋線|地下鉄今里筋線]] - [[だいどう豊里駅]] 
*[[大阪市高速電気軌道今里筋線|地下鉄今里筋線]] - [[だいどう豊里駅]]
:2007年に今里筋線が開通する以前は、阪急京都本線[[上新庄駅]]が最寄りであった。
:2007年に今里筋線が開通する以前は、阪急京都本線[[上新庄駅]]が最寄りであった。


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:1185年の[[屋島の戦い]]で敗れた[[平氏]]の武者がこの地に住みつき創建したと伝えられている<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000061561.html 稲生神社] - 東淀川区ウェブサイト</ref>。
:1185年の[[屋島の戦い]]で敗れた[[平氏]]の武者がこの地に住みつき創建したと伝えられている<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000061561.html 稲生神社] - 東淀川区ウェブサイト</ref>。
* [[乳牛牧]]([[乳牛牧跡|跡]])
* [[乳牛牧]]([[乳牛牧跡|跡]])

== 出身有名人 ==
== 出身有名人 ==
*[[遥洋子]] - タレント
* [[遥洋子]] - タレント
*[[森島正]] - [[大阪市議会]]議員([[大阪維新の会]])
* [[森島正]] - [[大阪市議会]]議員([[大阪維新の会]])


== 参考文献・出典 ==
== 参考文献・出典 ==

2019年7月19日 (金) 03:15時点における版

大桐(だいどう)は、大阪府大阪市東淀川区地名。旧地名は大道(だいどう)であり、時代を遡れば、西成郡大道村、さらには乳牛牧荘[1]大道村などとも呼ばれていた[2]

地勢

区の南東部に位置する。淀川神崎川の分岐部に近く、両河川に挟まれた一帯の南東部に当たる。東側が淀川で、北側に瑞光(ずいこう)、西側に大隅(おおすみ)と豊里(とよさと)、南側に大道南(だいどうみなみ)と接している。大道南は南東側で淀川と接している。最寄り駅は、阪急電鉄京都本線上新庄駅地下鉄今里筋線だいどう豊里駅または瑞光4丁目駅である。豊里大橋を渡り、淀川を超えると、京阪電気鉄道滝井駅土居駅も比較的近い(3-4km)。

歴史

縄文土器が発見されていることから、この地には縄文時代から人が生活していることが分かっている[3][4]。『続日本紀』に記載のある「大隅媛島二牧」は、『日本書紀』「安閑二年条」では「大隅島媛島」と表現されており、島が牧として利用されていたことがうかがえる。大隅島は、『摂津志』が大隅宮を「在西大道村」と比定して以来、吹田砂堆の中央部がこれに当たると考えられてきた。西大道村は旧名を大隅・大内・三宝寺と呼称したとされるため、これに従えば神崎川と淀川で区切られた砂堆を「島」と呼んでいたことになる[5]

また、中世には三宝寺という寺院が存在していたと考えられている[6]12世紀末に大日房能忍達磨宗宗)を弘通するために創建した寺院で広大な伽藍を有した。16世紀半ばに周辺が戦場となったため寺が廃絶したと考えられているが、明確な経緯は不明である。

中世以降、この地は乳牛牧荘と呼ばれ[1]、大道村(南大道村)、三宝寺村(西大道村)、辻堂村(北大道村)などがあった[7]。また。大桐5丁目の大隅神社境内にある石碑には以下のような文章が記載されている。

摂州西成郡北中嶋之内、乳牛牧の荘とも呼ばれたこの地域に大道村・辻堂村・三宝寺村があり、これら3村の氏神として賀茂大明神・稲荷神・山王神を三社相殿(本社)に、祇園・伊勢・春日・八幡・天神を五神相殿(末社)に祀り、賀茂大明神社の境内にあった真言宗無本寺の僧が祭祀を兼帯し、上記3村は南大道村・北大道村・西大道村とも呼ばれ、まとめて三大道と称されました。慶長12年、無本寺は三大院と改め、真言・禅宗の社僧は法祐坊から全良和尚まで8代続きました。貞亨3年、玄光和尚は大道寺と改め、三世雲門和尚は竹凉菴を起こし、修行僧は100人を超すときもあり、禅修行と神社の維持・祭祀を受け継いできました。(乳牛山大道寺年譜参照) 大道寺十三世のとき明治維新を迎え、大道寺・竹凉菴を廃し明治6年、賀茂大明神社は大隅神社と改められました。此碑より北50メートルの飛地に大道寺の墓地が現存します。

江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するために、明治時代初期に政府が各府県に作成させた『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)によると、

摂津国 西成郡 南大道村と西大道村は、仙石松渓知行所 大阪府
摂津国 西成郡 北大道村は、土井大炊頭(古河藩)領分 古河県

となっており、村によって領主が異なっていた。

『大阪府全志』巻之三によると、大道村は1889年(明治22年)に西大道村、南大道村、北大道村の3村が合併して成立した[8]。その後、大道村大字西大道、大道村大字南大道、大道村大字北大道となった。つまり、それ以降は、西成郡大道村となった[9]

1925年(大正14年)東淀川区への合併に伴い、北大道・西大道・南大道・東大道が町名となった[9]

1980年(昭和55年)、西大道町、北大道町、東大道町、大隅通、が大桐1 - 5丁目に改称して成立した[9]。また、南大道町は大道南と名称変更された[9]

教育機関

1964年(昭和39年)に、大阪市立大隅小学校(現・大阪市立大隅西小学校および大阪市立大隅東小学校)から独立する形で開校。
1976年(昭和51年)に開校。従来大阪市立瑞光中学校に進学していた大桐小学校出身者の進学先となる。
大隅キャンパスの多くは大隅に存在するが、一部大桐にもキャンパスがある。大阪経済大学70周年記念館前(大桐2丁目)には三宝寺跡伝承地の石碑があり、縄文式土器などが発掘されている[3]

交通機関

2007年に今里筋線が開通する以前は、阪急京都本線上新庄駅が最寄りであった。

主な施設

  • ベリスタ東淀川大桐
淀川沿いに建設された大規模マンション。
春と秋に大祭が催される[10]
1185年の屋島の戦いで敗れた平氏の武者がこの地に住みつき創建したと伝えられている[11]

出身有名人

参考文献・出典

  1. ^ a b 乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと) - 東淀川区ウェブサイト
  2. ^ 井上正雄『大阪府全志』巻之三、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
  3. ^ a b 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物 - 大阪歴史博物館
  4. ^ 大阪市博物館協会大阪文化財研究所(編)『三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告』大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2013年[1]
  5. ^ 阪田育功・辻本武(編)『崇禅寺遺跡』(大阪府埋蔵文化財調査報告 2002-4)大阪府教育委員会、2003年、p.2[2]
  6. ^ 西岡秀爾、「摂津中嶋三宝寺とその周辺」『印度學佛教學研究』 2007年 55巻 2号 p.1007-1004,1288, doi:10.4259/ibk.55.1007、日本印度学仏教学会
  7. ^ 井上正雄、「大阪府全志. 巻之1」『大阪府全志』 1922年, doi:10.11501/965798、大阪府全志発行所
  8. ^ 井上正雄『大阪府全志』巻之三、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
  9. ^ a b c d 角川日本地名大辞典 27-1 大阪府 総説・地名編』角川学芸出版、2009年、p.699
  10. ^ 大隅神社 - 東淀川区ウェブサイト
  11. ^ 稲生神社 - 東淀川区ウェブサイト