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'''地動儀'''(ちどうぎ)とは、[[中国]][[後漢]]の[[張衡 (科学者)|張衡]]が[[132年]]([[陽嘉]]元年)に考案した世界最古とされる[[地震計]](感震器)。正しくは'''候風地動儀'''という。 |
'''地動儀'''(ちどうぎ)とは、[[中国]][[後漢]]の[[張衡 (科学者)|張衡]]が[[132年]]([[陽嘉]]元年)に考案した世界最古とされる[[地震計]](感震器)。正しくは'''候風地動儀'''という。 |
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== 概観 == |
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[[File:Stamp of China.1953.seismometer called tellurian.jpg|right|thumbnail|180px|1953年、[[中国郵政|中国人民郵政]]が発行した[[切手]]]] |
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⚫ | [[銅]]製で外形は酒がめに似ており直径は8[[尺]](約184cm)。円筒の周囲8方向に突起した[[竜]]が配置され、その口には球を含んでいる。円筒中にある都柱(倒立振子の類)が地震に従って動き発生方向の竜の口から球が転落する。その下で口を開けて上を向いた[[蟾蜍]]([[ヒキガエル]])の口の中に入り、大きな音を発するようになっていた。内部は8方向に向かう[[クランク (機械要素)|クランク]]と掛外しの装置が存在し、中心の倒立振子の変位を伝える仕組みになっていたとされている。[[後漢書]]張衡傳にはこの地動儀の性能を表す逸話として、「かつて(地動儀の)竜が鳴いたが揺れを感じることは無かった。都の学者達はことごとく[[地震]]の兆しがないことを怪しんだ。数日後に[[長安]]の都に使者が来て[[隴西郡]]での地震の発生が報告された。これにより皆その優秀さに服従した。」との記述がある<ref name="千八百">{{Cite journal|和書|author=[[今村明恒]]|year=1936|title=地震漫談 (其の30)、千八百年前の地動儀|journal=地震 第1輯|volume=8|issue=7|pages=347-352|publisher=[[日本地震学会]]|issn=0037-1114|doi=10.14834/zisin1929.8.347|format=PDF|accessdate=2014-9-1}}</ref>。 |
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== 後世の再現 == |
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[[File:PSM V29 D320 Ancient chinese choko seismoscope from 136 a d.jpg|right|thumbnail|150px|ミルンの考察した地動儀]] |
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[[日本]]では[[ジョン・ミルン]]や{{仮リンク|王振鐸|zh|王振鐸}}による地動儀の推定が知られていた。[[1936年]]([[昭和]]11年)に、地動儀の発明1800年を記念して[[今村明恒]]と[[石本巳四雄]]の両名により、地動儀の複製、張衡の経歴業績を調査して公表することなどが申し合わされた{{Refnest|group="注"|ミルンの著作では地動儀の創作年が西暦136年となっていたため、1936年にこの記念事業は企画されたが、張衡の経歴を調べたところ創作年は132年の誤りであることが判明している<ref name="千八百"/>。}}。今村が後漢書の記述とミルンの著作を比較検討したところ、ミルンの著作には数々の誤りが見つかった。今村はミルンの著作に対して「全文誤りで充たされているといってもよいくらいに誤りが多いのである。」とまで述べている。ミルンや王は「都柱」を吊り振子と考えていたが、日本の[[地震研究所]]では当説を採用せず、「都柱」を倒立振子と仮定して内部構造に採用し、外観は[[1875年]](明治8年)に[[文部省]]の[[服部一三]]が描かせたものを採用した<ref name="千八百"/><ref>{{Cite web|url=http://blogs.yahoo.co.jp/aramata_hiroshi/21029583.html|title=中国古代秘器 地動儀をお供えする|accessdate=2014-9-1|author=[[荒俣宏]]|date=2005-12-29|work=荒俣宏のオークション博物誌}}</ref>。これらを元に地震研究所で動作する複製が作成された。今村は動作は極めて良好であったと述べている。 |
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また、[[中華人民共和国|中国]]においても日本のものとは外見及び内部構造が異なる地動儀が復元されている<ref>{{Cite web|url=http://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/02keiki/keiki_html/changh.html|title=張衡の地動儀|accessdate=2014-9-1|work=地震資料室|publisher=[[国立科学博物館]]}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 註釈 === |
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<references group="注"/> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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{{Cite book|和書|author = [[今村明恒]]|year = 1949|title = 地震の国|publisher = [[文藝春秋新社]]}} |
{{Cite book|和書|author = [[今村明恒]]|year = 1949|title = 地震の国|publisher = [[文藝春秋新社]]}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*{{YouTube|CMzEl6jTkgg|千年前張衡地動儀地震觀測始祖}} |
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*[http://research.kahaku.go.jp/rikou/namazu/02keiki/keiki_html/changh.html 張衡の地動儀][[国立科学博物館]]地震資料室 |
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[[Category:計測機器]] |
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2014年8月31日 (日) 22:38時点における版
地動儀(ちどうぎ)とは、中国後漢の張衡が132年(陽嘉元年)に考案した世界最古とされる地震計(感震器)。正しくは候風地動儀という。
概観
銅製で外形は酒がめに似ており直径は8尺(約184cm)。円筒の周囲8方向に突起した竜が配置され、その口には球を含んでいる。円筒中にある都柱(倒立振子の類)が地震に従って動き発生方向の竜の口から球が転落する。その下で口を開けて上を向いた蟾蜍(ヒキガエル)の口の中に入り、大きな音を発するようになっていた。内部は8方向に向かうクランクと掛外しの装置が存在し、中心の倒立振子の変位を伝える仕組みになっていたとされている。後漢書張衡傳にはこの地動儀の性能を表す逸話として、「かつて(地動儀の)竜が鳴いたが揺れを感じることは無かった。都の学者達はことごとく地震の兆しがないことを怪しんだ。数日後に長安の都に使者が来て隴西郡での地震の発生が報告された。これにより皆その優秀さに服従した。」との記述がある[1]。
後世の再現
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/62/PSM_V29_D320_Ancient_chinese_choko_seismoscope_from_136_a_d.jpg/150px-PSM_V29_D320_Ancient_chinese_choko_seismoscope_from_136_a_d.jpg)
日本ではジョン・ミルンや王振鐸による地動儀の推定が知られていた。1936年(昭和11年)に、地動儀の発明1800年を記念して今村明恒と石本巳四雄の両名により、地動儀の複製、張衡の経歴業績を調査して公表することなどが申し合わされた[注 1]。今村が後漢書の記述とミルンの著作を比較検討したところ、ミルンの著作には数々の誤りが見つかった。今村はミルンの著作に対して「全文誤りで充たされているといってもよいくらいに誤りが多いのである。」とまで述べている。ミルンや王は「都柱」を吊り振子と考えていたが、日本の地震研究所では当説を採用せず、「都柱」を倒立振子と仮定して内部構造に採用し、外観は1875年(明治8年)に文部省の服部一三が描かせたものを採用した[1][2]。これらを元に地震研究所で動作する複製が作成された。今村は動作は極めて良好であったと述べている。
また、中国においても日本のものとは外見及び内部構造が異なる地動儀が復元されている[3]。