黄富俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黄富俊
『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊
プロフィール
出生: 1890年光緒16年)
死去: 不詳
中華人民共和国の旗 中国遼寧省撫順市
出身地: 盛京将軍管轄区奉天府承徳県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 黃富俊
簡体字 黄富俊
拼音 Huáng Fùjùn
ラテン字 Huang Fu-qün
和名表記: こう ふしゅん
発音転記: フアン フージュン
テンプレートを表示

黄 富俊(こう ふしゅん)は満州国政治家。別号は潤軒

事績[編集]

奉天法政学堂を卒業し、1908年光緒)4月、奉天度支司書記官となる。1914年民国3年)8月、奉天省財政庁総務課正司書に任ぜられ、1916年(民国5年)3月、同庁制用科科員となる。1919年(民国8年)、同庁予算股長となった。

1921年(民国10年)9月、黄富俊は察哈爾省財政庁征榷科科長兼长兼察哈爾銀行座弁に起用された。1923年(民国12年)11月、奉天陸軍糧秣廠第1科科長となり、翌年12月には鎮威上将軍公署軍需処第1科科長も兼任した。1927年(民国16年)5月、鎮威軍総兵站処兵站監兼陸軍糧秣廠総務官に昇進した。1929年(民国18年)12月、東省特別区(ハルビン特別区)公署顧問兼道勝銀行清理員となっている。

満州国が建国された当初に黄富俊は民政部理事となり、1932年大同元年)3月に、民政部地方司司長に任命された。1937年康徳4年)に民政部が民生部に改組されるまで、一貫してその地位をつとめる。同年7月1日、安東省省長に任命される[1]1939年(康徳6年)8月、竜江省省長に移る。1942年(康徳9年)9月、興農部大臣に昇進し、満州国滅亡まで、その任にあった[2]

満州国滅亡後に黄富俊は逮捕され、中華人民共和国成立後になって撫順戦犯管理所へ収監された。具体的な没年は不明だが、収監中に死去した。[3]

[編集]

  1. ^ 「満州の人事異動 行革に伴い七月発令」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)6月12日、2面。
  2. ^ 「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日夕刊、1面
  3. ^ 徐(2009)。

参考文献[編集]

  • 「偽“満洲国”官員黄富俊筆供」1954年6月30日中国青年網(『中国青年報』ホームページ)
  • 徐遠挙「各批獲特赦国民党、偽満、偽蒙戦犯人員名単選録」遼寧警網、2009年8月24日
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
王茲棟
安東省長
1937年6月 - 1939年8月
次代
丁超
先代
趙鵬第
竜江省長
1939年8月 - 1942年9月
次代
申振先
先代
于静遠
興農大臣
1942年9月 - 1945年8月
次代
(廃止)