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高淹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 淹(こう えん、? - 564年)は、中国北斉皇族。平陽靖翼王。高歓の四男[1][2][3]。母は穆氏[4][5][6]は子邃[1][2][3]

経歴

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東魏元象年間、平陽郡公に封ぜられた[1][2][3]并州刺史をつとめ[7][8]、尚書左僕射に累進した[1][2][3]天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高淹の爵位は平陽郡王に進んだ[9][10][11]。7月に尚書令に任じられた[9][12][13]。天保5年(554年)8月、録尚書事となった[14][15][16]。天保10年(559年)11月、司空に上った[17][18][19]乾明元年(560年)2月、太尉に転じた[20][21][22]皇建元年(560年)8月、太傅となり[23][24][25]、彭城王高浟・河間王高孝琬とともに仗身・羽林100人を給された[1][2][3]太寧元年(561年)11月、太宰に転じた[26][27][28]河清元年(562年)2月、青州刺史・太傅・領司徒に転じた[29][27][28]。7月、太宰[30][31]となった。河清3年(564年)12月[32][33][34]晋陽で死去した。一説に毒殺されたともいう。遺体はに葬られ、仮黄鉞・太宰・録尚書事の位を追贈された[1][2][3]

子の高徳素が後を嗣いだ[1][2][3]

高淹の妻の馮娑羅(ふうばら、532年 - 553年7月15日)は、北燕の馮氏の後裔で、平陽王妃となり、を昭といった[35]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 氣賀澤 2021, p. 158.
  2. ^ a b c d e f g 北斉書 1972, p. 133.
  3. ^ a b c d e f g 北史 1974, p. 1861.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 155.
  5. ^ 北斉書 1972, p. 131.
  6. ^ 北史 1974, p. 1859.
  7. ^ 氣賀澤 2021, p. 356.
  8. ^ 北斉書 1972, p. 348.
  9. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 79.
  10. ^ 北斉書 1972, p. 52.
  11. ^ 北史 1974, p. 246.
  12. ^ 北斉書 1972, p. 53.
  13. ^ 北史 1974, p. 247.
  14. ^ 氣賀澤 2021, p. 87.
  15. ^ 北斉書 1972, p. 59.
  16. ^ 北史 1974, p. 251.
  17. ^ 氣賀澤 2021, p. 102.
  18. ^ 北斉書 1972, p. 74.
  19. ^ 北史 1974, p. 264.
  20. ^ 氣賀澤 2021, p. 103.
  21. ^ 北斉書 1972, p. 75.
  22. ^ 北史 1974, p. 265.
  23. ^ 氣賀澤 2021, p. 111.
  24. ^ 北斉書 1972, p. 82.
  25. ^ 北史 1974, p. 269.
  26. ^ 氣賀澤 2021, p. 117.
  27. ^ a b 北斉書 1972, p. 90.
  28. ^ a b 北史 1974, p. 282.
  29. ^ 氣賀澤 2021, p. 118.
  30. ^ 北斉書 1972, p. 91.
  31. ^ 北史 1974, p. 283.
  32. ^ 氣賀澤 2021, p. 121.
  33. ^ 北斉書 1972, p. 94.
  34. ^ 北史 1974, p. 285.
  35. ^ 王 2013, pp. 129–131.

伝記資料

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  • 北斉書』巻10 列伝第2
  • 北史』巻51 列伝第39
  • 大斉平陽王国故昭妃馮氏墓銘

参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 王連龍『新見北朝墓誌集釈』中国書籍出版社、2013年。ISBN 978-7-5068-3445-2