関口氏経

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関口氏経
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
氏族 瀬名氏関口氏
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関口 氏経(せきぐち うじつね)は、戦国時代武将今川氏真の家臣。

人物[編集]

今川氏一族の堀越氏の縁類で、奏者の役を務めた[1]。越中守[1]または越後守[2][注釈 1]

永禄11年(1568年)8月4日、遠江国井伊谷を治める井伊次郎に宛て、2年前に発せられた徳政令の実施を求める書状を送っている[1]。また同日付で、井伊家の親類衆・被官衆へも同文の書状を送っており[4][5]、その中で「井主」[注釈 2][注釈 3]が独断的に徳政実施を徹底しなかったと批判している[6]。同年11月9日、次郎直虎との連署になる書状では、祝田郷の有力者宛に徳政令の実施を命じている[8][9][10]

また、江戸時代初期に彦根藩筆頭家老木俣家にて書かれた『雑秘説写記』という文書によれば、新野親矩(左馬助)の甥にして氏経の息子が「井伊次郎」と名乗り、今川氏真の命で 井伊谷城主として送り込まれたと記述されており、それによれば、その「井伊次郎」が実は「直虎」だったのではないかとも想定出来る[11][12]

ただし、その『雑秘説写記』にも、氏経の「井伊次郎」と名乗ったとされる息子が「直虎」というを名乗ったとは記されておらず、女性である次郎法師(井伊直盛の娘で、現在まで「井伊直虎」と比定されている人物)が「直虎」という諱を名乗らなかったとまでは断定出来ていない[13]

登場する作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 阿部が「越後殿」=「関越」=関口氏経としていることに対し、大石は別人の可能性もあるとして慎重である[3]
  2. ^ 若林は「井主」について「井伊谷一帯の支配者である井伊氏のこと」と解釈している[6]
  3. ^ 阿部は「井主」について、井伊氏傍流の井伊主水佑のことであると指摘する[7]

出典[編集]

  1. ^ a b c 若林(1955年)、89頁
  2. ^ 阿部(2001年)、117頁
  3. ^ 大石(2001年)、34頁・註(40)
  4. ^ 若林(1955年)、89-90頁
  5. ^ 引佐町(1991年)、567頁
  6. ^ a b 若林(1955年)、91頁
  7. ^ 阿部(2001年)、127-128頁
  8. ^ 引佐町(1991年)、564頁
  9. ^ 小和田(2001年)、125頁
  10. ^ 若林(1955年)、90頁
  11. ^ “おんな城主・井伊直虎、実は男だった!?京都の美術館が発表 NHK来年の大河ドラマ主人公”. 産経新聞. (2016年12月15日). https://www.sankei.com/article/20161215-CUQHMCNH55OGNOIAPH6SFHB6WE/ 2017年1月8日閲覧。 
  12. ^ 京都新聞電子版 平成28年12月15日配信
  13. ^ NEWSポストセブン 平成29年3月12日配信

参考文献[編集]

  • 引佐町(編) 『引佐町史 上巻』 引佐町、1991年
  • 若林淳之「今川氏真の苦悶-今川政権の終焉-」 『静岡大学教育学部研究報告』 6号、1955年
  • 小和田哲男 『争乱の地域史: 西遠江を中心に 第4巻』 清文堂、2001年
  • 阿部浩一 『戦国期の徳政と地域社会』 吉川弘文館、2001年
  • 大石泰史「「国人領主」井伊氏の再検討-今川氏在地支配に関する一試論-」静岡県地域史研究会(編) 『戦国期静岡の研究』 清文堂、2001年、13-36頁所収

関連書籍[編集]

  • 川口素生『井伊直虎と戦国の女100人』(PHP研究所、2016年)
  • 久保田昌希『戦国大名今川氏と領国支配』(吉川弘文館、 2005年)
  • 臼井進「戦国大名今川氏の徳政令--「借銭借米」・「買地」の安堵と徳政令」『史叢 第46号』(日本大学史学会、1991年)