道隠

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道隠
1741年 - 1813年7月1日
寛保元年 - 文化10年6月4日
道隠
法名 諦忍
薩州
院号 浄信院
生地 薩摩国
没地 豊前中津?
宗旨 浄土真宗
宗派 本願寺派
寺院 河内(境)西念寺、豊前長久寺
僧鎔、僧樸
弟子 月珠、善譲など
著作 「教行信証略讃」など
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道隠(どうおん、1741年寛保元年) - 1813年7月1日文化10年6月4日))は、江戸時代中期から後期にかけての浄土真宗本願寺派学僧法名は諦忍。は道隠。は薩州。院号は浄信院。堺空華(学派)の祖。古義派の論客として、三業惑乱の大紛争を引き起こした。

概要[編集]

薩摩国の出身。初め河内国西念寺に住したが、晩年は豊前国長久寺(大分県中津市)に移った。僧樸僧鎔(空華轍の祖)に師事し、空華学派の代表的学匠である「空華三師」の一人に数えられる(他は僧鎔・柔遠)。

安芸国大瀛とともに古義派の代表として西本願寺能化智洞の唱える三業帰命説(三業安心説)を批判し、三業惑乱の大紛争を引き起こした。これは、単なる教義論争に止まらず流血の紛争に発展し、門主をはじめとする宗門はこれを収拾できず、江戸幕府京都所司代および寺社奉行の介入を招くこととなった。 1803年享和3年)には二条城で、また翌1804年(享和4年)には江戸の寺社奉行所で大瀛とともに対論し、智洞を論破した。 1806年(文化3年)、寺社奉行の脇坂安董が三業帰命説を異安心(異端)と審判したことで道隠・大瀛の主張が認められ、本願寺門主の本如もこれを追認する形で事態は決着した。しかし同年7月、に天下を騒がせたとして両派関係者へ処罰が下り、道隠は退隠を強いられた。

著作[編集]

  • 『教行信証略讃』など

関連項目[編集]