裴景融
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裴 景融(はい けいゆう、495年 - 546年)は、北魏から東魏にかけての官僚・文人。字は孔明。本貫は河東郡聞喜県。弟は裴伯茂・裴景顔。
経歴
[編集]司空中郎の裴叔義(裴仲規の弟)の長男として生まれた。学問に励んで文章を作るのを好んだ。正光初年、秀才に挙げられ、射策科に及第し、太学博士に任じられた。永安年間、秘書監の李凱に学才を認められて、推薦を受けて著作佐郎に任じられた。しばらくして輔国将軍・諫議大夫に転じ、著作を兼ねた。孝武帝のとき、孝荘帝の諡をめぐる議論に加わり、景融の意見のとおりに施行された。『四部要略』編纂の命を受けたが、景融ひとりに任されたため、完成することはなかった。元象年間、儀同の高岳の下で録事参軍となった。弟の裴景顔が弾劾されて廷尉の獄に付されると、景融は吏部の選により郡太守に擬されていたところだったが、御史中丞の崔暹の弾劾を受けて、免官された。546年(武定4年)冬、病死した。享年は52。景融の作った文章は、文集にまとめられた。また「鄴都賦」「晋都賦」を作ったと伝えられる。