裴伯茂

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裴 伯茂(はい はくぼう、497年頃 - 535年頃)は、北魏から東魏にかけての文人軍人本貫河東郡聞喜県

経歴[編集]

司空中郎の裴叔義(裴仲規の弟)の次男として生まれた。伯父の裴仲規の後を嗣いだ。若くして広く書物を読み、文才に富んでいた。奉朝請を初任とした。524年正光5年)、京兆王元継が莫折天生(莫折念生の弟)の乱を討つべく関西に出征すると、伯茂は大将軍鎧曹参軍として従軍した。526年孝昌2年)、絳蜀の陳双熾が反乱を起こすと、伯茂は長孫稚の下で行台郎中として従軍し、反乱軍を討った。長孫稚が洛陽に凱旋すると、伯茂は知行台事として関西に留まった。527年(孝昌3年)、薛鳳賢らの乱を討って、功績により平陽伯に封じられた。散騎常侍の位を受け、典起居注をつとめた。532年太昌元年)、中書侍郎となった。永熙年間、広平王元賛の下で文学をつとめ、後に中軍大将軍の号を加えられた。

伯茂は飲酒を好んで、態度が踞傲であり、長らく出世できなかったことから、「豁情賦」を作って無聊を慰めた。534年天平元年)、東魏が建国されて、洛陽からに遷都されると、伯茂は「遷都賦」を作った。

535年(天平2年)、伯茂は宮中の宴において殿中尚書の章武王元景哲(元融の子)を侮辱したため、拘禁されたが、罪には問われなかった。伯茂は兄の裴景融が貧困に陥ったとき、援助しようとしなかったため、当時の世間に薄情とみなされた。『晋書』の編纂を志したが、完成できないまま、39歳で死去した。散騎常侍・衛将軍・度支尚書・雍州刺史の位を追贈された。さらに吏部尚書の位を贈られた。は文といった。

子がなく、兄の裴景融の次男の裴孝才が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]