蝦夷穴
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蝦夷穴(えぞあな)は、崖の中腹にある横穴の呼び名で、東北地方南部から関東地方・中部地方に分布する。エゾ穴とも書く。実態は古墳時代から奈良時代にかけて作られた古墳の横穴式石室か横穴墓で、蝦夷が作ったものではない。
解説
[編集]蝦夷穴は、蝦夷(エゾ)すなわちアイヌの住居跡の意味である。だが、蝦夷は古い時代にはエミシかエビスと呼び、エゾという呼び方が生まれたのは蝦夷穴分布域で蝦夷が姿を消した後の平安時代後期以降であった。蝦夷穴はエゾ穴であって、エミシ穴、エビス穴とは言わないので、これ以降の名である[1]。積極的証拠はないが、江戸時代あたりに付けられた名かという[2]。遺跡の性格も、同じ地域・他地域の他の古墳・横穴墓と比べて異質なものではなく、蝦夷穴をエミシやエゾにあてることはできない。古墳・横穴墓に関する知識が失われた後世に、推測で付けられた呼び名である。明治時代の考古学では坪井正五郎が住居説を唱えたことがあったが、現在は横穴墓ということで異論はない[3]。
蝦夷穴を遺跡名として持つ古墳・横穴墓は、国の史跡である須曽蝦夷穴古墳など少ないが、地元で蝦夷穴と呼ばれたものはこれらに限らない。20世紀の宮城県では名取市で多数の横穴墓群が蝦夷穴と呼ばれ[1]、多賀城市、仙台市、白石市、利府町でもそれぞれ地元の横穴墓が蝦夷穴と呼ばれていた。
蝦夷穴を名称に持つ遺跡
[編集]蝦夷穴と呼ばれた遺跡
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『名取市史』53-56頁。
- ^ a b 『多賀城市史』1(原始・古代・中世)184頁。
- ^ 『改訂郷土史事典6・宮城県』「エゾ穴の遠い歴史と謎」13-15頁。
- ^ 琴田隼一郎『最新版仙台全図』、東洋造画館、1912年。有限会社イービー・風の時編集部・企画編集『100年前の仙台を歩く 仙台地図散歩』、せんだい120アニバーサリー委員会、2009年。
- ^ 名取市歴史民俗資料館「熊野堂横穴墓群(くまのどうよこあなぼぐん)」。2023年2月閲覧。
参考文献
[編集]- 多賀城市史編纂委員会『多賀城市史』1(原始・古代・中世)、多賀城市、1997年。
- 名取市史編纂委員会『名取市史』、宮城県名取市、1977年。
- 佐々久・編『改訂郷土史事典6・宮城県』、昌平社、1982年。