肝付兼演

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
肝付兼演
時代 戦国時代
生誕 明応7年(1498年
死没 天文21年7月4日1552年7月25日
改名 兼演→以安斎(号)
別名 通称:三郎五郎
戒名 存庭兼祐居士
官位 越前
主君 島津勝久貴久島津実久→島津貴久
氏族 肝付氏
父母 父:肝付兼固
兄弟 兼演兼利
廻久元
兼盛
テンプレートを表示

肝付 兼演(きもつき かねひろ)は、戦国時代武将大隅国加治木城主。

兼演の家系は肝付氏本家12代・兼忠の三男・兼光を祖とする肝付氏庶流で、島津勝久家老を務めた。大永6年(1526年)11月に勝久が島津貴久に家督を譲った際に、兼演は越前守に任じられ、そのまま貴久に仕えた。天文3年(1534年)、貴久の実父・島津忠良に辺川・加治木・木ノ内・中ノ州などの領地を与えられてより、それまでの本貫地であった大隅溝辺から加治木に拠点を移した(大永7年(1527年)説あり)。

天文6年(1537年)、兼演は薩州家当主・島津実久の調略に応じ、一転して貴久に敵対する。これに貴久は、天文11年(1542年)に北原氏庶流の北原兼孝の助勢を得て加治木に攻め込むが、兼演はこれを退却させた。貴久は次に、天文18年(1549年)5月に伊集院忠朗樺山善久北郷忠相らの軍勢を遣わした。これに蒲生氏入来院氏祁答院氏東郷氏が兼演の助勢に駆けつけ対陣するも、11月に伊集院忠朗の子・忠倉の火計により陣を乱され敗退、兼演は北郷氏を通じて翌年[1]貴久に降伏した。しかし、翌年に加治木の領有は安堵される。

天文21年(1552年)に死去。享年55。嫡男・兼盛が後を継いだ。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)