網野鉦一
あみの しょういち 網野 鉦一 | |
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生年月日 | 1934年1月30日 |
没年月日 | 2006年1月17日(71歳没) |
出生地 | 日本 千葉県 |
死没地 | 日本 東京都大田区 |
職業 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー、養成学校経営者 |
ジャンル | 劇映画、記録映画、着付け |
活動期間 | 1956年 - 2006年 |
事務所 | 網野映画株式会社、網野学園株式会社 |
主な作品 | |
製作・監督 『メコンの詩』 製作 『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』 |
網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2006年1月17日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、養成学校経営者である[1][2][3][4][5]。網野映画株式会社、網野学園株式会社代表[2][5]。日本映画監督協会物故会員[2]。
人物・来歴
[編集]1952年(昭和27年)3月、千葉県立長生高等学校を卒業、その後1956年(昭和31年)、満22歳のときに脚本家になった[2]。日本映画監督協会公式ウェブサイトの網野の項目には、その6年後の1962年(昭和37年)に「新東宝映画演出部入社」と記載されているが[2]、新東宝は前年1961年(昭和36年)8月31日に倒産しており、製作部門はその年の11月15日に切り離されて、ニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)になっており、同年に同社が「新東宝」の名で製作したものは、2月11日公開の『俺が裁くんだ』(監督橋田寿久年、配給日活)、6月3日公開の『悲しみはいつも母に』(監督中川信夫、配給大映)の2作のみで[6]、現在の新東宝映画の前身である新東宝興業が映画を製作するのは1963年(昭和38年)6月22日に公開された『日本残酷物語』(監督中川信夫・小森白・高橋典)を待つことになる[7]。1966年(昭和41年)、フリーランスの演出家になる[2]。
1973年(昭和48年)、映画製作会社の網野映画株式会社を設立、同社は同年、ベトナム戦争の戦時下にある南ベトナム政府(当時のベトナム共和国)の国立映画センターおよび国立テレビセンターとの合作を行い、網野を監督にセミドキュメンタリー的な児童劇映画『メコンの詩』を製作する[2][3][5]。同作は1976年(昭和51年)に公開されている[8]。ひきつづき網野は、脚本家の長田紀生を監督に起用し、劇映画『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』を企画・製作、同作のロケーション撮影を1974年(昭和49年)から1975年(昭和50年)初頭にかけての約4か月間、サイゴン(現在のホーチミン市)で行い、同年4月30日に同市が陥落する以前に撮影を終えている[3][4][9][10]。同作については、0号プリントまで完成した後に諸事情で公開されることがなかった[9][10]。ロケーション撮影した地域は終戦とともに政治体制が変わり、ベトナム社会主義共和国になった。
その後、網野は記録映画を積極的に製作し、1980年(昭和55年)には山形県の通商産業大臣指定伝統的工芸品に取材した『置賜紬』等を発表した[2]。着付けの学校「網野学園」(経営・網野学園株式会社)を東京都大田区西蒲田に開き、同学園を経営した[5]。1988年(昭和63年)12月には著書『着つけレッスン』(グラフ社)を上梓[1]、1997年(平成9年)10月13日には「帯の弛み防止具と、それを用いた帯結び方法」を発明して特許出願しており、1999年(平成11年)4月27日付で公開される等、着付けの実際の分野にも取り組んだ[11]。
2006年(平成18年)1月17日、午前8時37分、肺炎による低酸素血症のため、入院先の東京都大田区の病院で死去した[5]。満71歳没。公開されなかった映画『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』は、遺族がネガフィルムと0号プリントを東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)に寄贈した[3][9][10]。これをもとに同作の監督の長田紀生が2012年10月にデジタル編集を行って修復、改めて完成し、同作に「混血児タロー」役で出演していた磯村健治が経営する企業「プレサリオ」[12] が配給して2014年(平成26年)4月26日、初めて全国公開された[9][10]。NFC所蔵のプリントは105分[3]、公開版は99分である[9]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]監督・脚本・製作等のクレジットは、公開年月日の右側に付した(特筆のないものはすべて監督)[2][3][4][5]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。
- 『メコンの詩』 : 製作網野映画、1973年製作 - 監督・製作、86分の上映用プリントをNFC所蔵[3]
- 『ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン』 : 脚本・監督長田紀生、製作網野映画、1975年製作・2014年4月26日公開 - 企画・製作、105分の上映用プリントをNFC所蔵[3]
- 『置賜紬』 : 製作網野映画、記録映画、1980年製作
- 『紅花の里』 : 製作網野映画、記録映画、1980年製作
- 『古代織物』 : 製作網野映画、記録映画、1980年製作
- 『ぜんまい紬』 : 製作網野映画、記録映画、1981年製作
- 『置賜紬白鷹』 : 製作網野映画、記録映画、1981年製作
- 『着付レッスン』 : 製作網野映画、プロモーションビデオ、1993年製作
ビブリオグラフィ
[編集]著作の一覧である[1]。
- 『着つけレッスン - ひとりで着る、人にも着せられる』、グラフ社、1988年12月発行
- 『帯結びレッスン - 自分で結ぶ基本結び 結んであげる変わり結び』、グラフ社、1990年11月発行 ISBN 4766202872
- 『着物の知識と着つけ - 初めて着物を着る人、着せる人に』、グラフ社、1996年11月発行 ISBN 4766203992
- 『自分で縫う自分で着るゆかたの本』、グラフ社、1997年7月発行 ISBN 4766204395
脚注
[編集]- ^ a b c 網野鉦一、Webcat Plus, 2014年5月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 網野鉦一、日本映画監督協会、2014年5月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 網野鉦一、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年5月7日閲覧。
- ^ a b c 網野鉦一、KINENOTE, 2014年5月7日閲覧。
- ^ a b c d e f 網野鉦一氏死去 映画監督、共同通信社、2006年1月25日付、2014年5月7日閲覧。
- ^ 1962年 公開作品一覧 399作品、日本映画データベース、2014年5月7日閲覧。
- ^ 1963年 公開作品一覧 391作品、日本映画データベース、2014年5月7日閲覧。
- ^ 年鑑[1977], p.169.
- ^ a b c d e ナンバーテン・ブルース さらばサイゴン - KINENOTE, 2014年5月7日閲覧。
- ^ a b c d ベトナム戦争渦中で撮影された日本映画、37年ぶりにフィルムが発見され公開へ、シネマトゥデイ、2013年2月5日付、2014年5月7日閲覧。
- ^ 帯の弛み防止具と、それを用いた帯結び方法、j-platpat, 2014年5月7日閲覧。
- ^ 会社情報、プレサリオ、2014年5月7日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 1977』、時事映画通信社、1977年発行
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 網野鉦一 - Webcat Plus
- 網野鉦一 - 日本映画監督協会
- 網野鉦一 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 網野鉦一 - KINENOTE