筑
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歴史
[編集]筑の形は琴に似ていたが、弾奏するのではなく、竹(「竹」と「筑」は同音)の棒で弦をたたいて音を出す[1][2][3]。楽器の詳細は文献によって異なり、弦の数は5弦とも[4]、13弦とも[1][5]、21弦とも[6]いう。
筑は戦国時代にはすでに存在していた。『戦国策』では斉の都の臨淄において、人々がみな竽・瑟・筑・琴などの楽器を演奏していたと言っている[7]。
筑の奏者としてもっとも有名なのは高漸離であり、友人の荊軻を送るときに筑を演奏した。また筑の名手として始皇帝に近づいて暗殺しようとしたが、失敗して殺された[8]。
漢の劉邦が「大風歌」を披露するときにも筑で伴奏している[9]。
考古学的には馬王堆3号墓から1973年に明器(副葬品)の筑が発見された。胴体は1つの木から作られており、長さ34cm、厚さ3cmで、実用品ではない。1976年には広西貴県羅泊湾漢墓からも明器の「越筑」の断片が発見されている。1993年には長沙市望城坡古墳垸の前漢の長沙王墓から明器でない本物の筑がはじめて出土した。長さ93.4cmで5弦。ほかに馬王堆1号墓や連雲港から筑を演奏している様子を描いた絵が発見されている[10]。
隋・唐まで清商楽の楽器として筑が残存していたが[11]、その後は使用されなくなった。
脚注
[編集]- ^ a b 『太平御覧』巻576・楽部14・筑「『楽書』曰:筑者、形如頌琴、施十三弦、頂細肩円。品声按柱、鼓法以左手扼之、右手以竹尺撃之、随調応律。唐代編入雅楽也。」
- ^ 『釈名』釈楽器「筑以竹鼓之筑柲之也。」
- ^ 『漢書』高帝紀下「上撃筑」注「鄧農曰:筑音竹。応劭曰:状似琴而大頭、安弦以竹撃之、故名曰筑。師古曰:今筑形似瑟而細頸也。」
- ^ 『説文解字』巻5・竹部「筑、以竹曲五弦之楽也。从竹从巩。巩、持之也。竹亦声。」
- ^ 『広韻』入声一屋・竹小韻「筑似箏、十三弦。高漸離善撃筑。(後略)」
- ^ 『淮南子』泰族訓「荊軻西刺秦王、高漸離・宋意為撃筑而歌於易水之上。」高誘注「筑曲二十一弦。」
- ^ 『戦国策』斉策1・蘇秦為趙合従説斉宣王「臨淄甚富而実、其民無不吹竽・鼓瑟・撃筑・弾琴・闘鶏・走犬・六博・蹴鞠者。」
- ^ 『史記』刺客列伝・荊軻
- ^ 『史記』高祖本紀「酒酣、高祖撃筑、自為歌詩曰:大風起兮雲飛揚、威加海内兮帰故郷。安得猛士兮守四方。」
- ^ 王子初『中国音楽考古学』福建教育出版社、2003年、335-340頁。ISBN 7533435532。
- ^ 楊蔭瀏『中国古代音楽史稿』 上冊、人民音楽出版社、1980年、254-256頁。