第一号型掃海艇
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第一号型掃海艇 | |
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艦級概観 | |
艦種 | 掃海艇 |
艦名 | |
前級 | - |
次級 | 第五号型掃海艇 |
要目(竣工時) | |
排水量 | 基準:600トン 公試:702トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 8.03m |
吃水 | 2.29m |
機関 | ロ号艦本式缶(石炭専焼)2基[1] 直立3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、4,000馬力 |
速力 | 20.0ノット |
航続距離 | 12ノットで2,000海里 |
燃料 | 石炭:150トン |
乗員 | 97名[2] |
兵装 | 45口径三年式12cm砲 2門 40口径三年式8cm高角砲 単装1門 九一式爆雷投射機2基 爆雷投下台6基 爆雷18個[3] 対艦式大掃海具2型 単艦式大掃海具3型、または機雷50個 |
同型艇 | 4隻 |
第一号型掃海艇(だいいちごうがたそうかいてい)は、日本海軍の掃海艇。同型艇4隻。海軍省が定めた艦艇類別等級別表では、第一号掃海艇から第六号掃海艇までを第一号型として分類している[4]。
概要
[編集]日本海軍での初めて専用に設計された掃海艇。それまでは老朽化した駆逐艦を掃海艇に当てていた。1920年(大正9年)の八八艦隊案で6隻の建造が予定されていたが3隻(第1,2,3号)起工の時点でワシントン軍縮条約が締結され残り3隻は一旦起工を中止、1923年(大正12年)度に改めて予算を獲得し残りの3隻が建造された。最後の2隻は若干設計が改められ、第五号型掃海艇として竣工した。
日本海軍では掃海艇に対して艦隊に随伴して前路を掃海する任務を想定しており、敵艦との遭遇を考え他国の掃海艇より兵装が強力だった。また機雷も搭載でき、より多目的な艦で艦型も小型の駆逐艦の様子を呈していた。
竣工後の変遷は、竣工時には第1煙突と第2煙突の高さは同じだったが直後に第1煙突の高さを延長した。友鶴事件の後は本型も改善工事を受けている。1938年(昭和13年)ころに8cm高角砲は撤去され、同じ頃1番砲に盾が装備された。
太平洋戦争には4隻とも参加、掃海の他、船団護衛の任務にも従事した。大戦後半になり機銃の増備等を実施する。第1号の例では1番砲を撤去し25mm連装機銃1基を装備、同単装機銃3挺を増備、13号電探を艦橋トップに装備、爆雷投下軌条の設置などの改装がなされている[5]。第4号には22号電探が装備されたと推定される[6]。
本型4隻のうち大戦中に3隻が沈没、第4号のみがシンガポールで残存した。
同型艇
[編集]第一号掃海艇
[編集]→詳細は「第一号掃海艇」を参照
第二号掃海艇
[編集]→詳細は「第二号掃海艇」を参照
第三号掃海艇
[編集]→詳細は「第三号掃海艇」を参照
第四号掃海艇
[編集]→詳細は「第四号掃海艇」を参照
脚注
[編集]- ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると3基。
- ^ 『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』による。『写真 日本の軍艦 第13巻』p226-227の表によると91名。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』による。一方『昭和造船史』、『日本補助艦艇物語』には爆雷の記載はない。
- ^ 大正15年11月29日付 海軍内令 第238号。
- ^ 『日本補助艦艇物語』p368-370。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第13巻』p229の記述による。
- ^ a b c 「大正10年10月12日付 海軍大臣達 第190号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070079300
- ^ a b c 「大正13年4月24日付 海軍大臣達 第49号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070083400
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。 ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0658-2
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』