第110師団 (日本軍)
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第110師団 | |
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創設 | 1938年(昭和13年)6月16日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 師団 |
兵種/任務 | 歩兵 |
人員 | 約25,000名 |
所在地 | 姫路-華北 |
編成地 | 姫路 |
通称号/略称 | 鷺 |
補充担任 | 姫路師管 |
最終上級単位 | 第12軍 |
最終位置 | 河南省 洛陽 |
戦歴 | 日中-太平洋戦争 |
第110師団(だいひゃくじゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。
沿革
[編集]編成後、直ちに華北に派遣北支那方面軍戦闘序列に編入され、北京付近の警備に当たるとともに京漢線沿線の治安作戦に従事した。
太平洋戦争開戦後も北支那方面軍隷下華北に在りこの方面のさまざまな作戦に参加した。
- 1944年(昭和19年)3月:第12軍戦闘序列に編入大陸打通作戦第一段の京漢作戦に参加、洛陽を攻略し占領後警備に当たる。
- 1945年(昭和20年)4月:老河口作戦で飛行場破壊作戦に従事し、作戦終了後洛陽に戻り、同地で終戦を迎えた。
師団概要
[編集]歴代師団長
[編集]- 桑木崇明 中将:1938年(昭和13年)6月18日 - 1939年12月1日[3]
- 飯沼守 中将:1939年(昭和14年)12月1日 - 1942年8月1日[4]
- 林芳太郎 中将:1942年(昭和17年)8月1日 - 1944年7月18日[5]
- 木村経広 中将:1944年(昭和19年)7月18日 - 終戦[6]
参謀長
[編集]- 岩永汪 歩兵大佐:1938年(昭和13年)7月1日 - 1939年8月1日[7]
- 松田巌 中佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1940年12月2日[8]
- 中村三郎 中佐:1940年(昭和15年)12月2日 - 1943年6月10日[9]
- 末永光夫 大佐:1943年(昭和18年)6月10日[10] - 1945年2月26日[11]
- 山本三四郎 大佐:1945年(昭和20年)2月26日 - 終戦[12]
最終所属部隊
[編集]- 歩兵第110連隊(岡山):中村武男大佐
- 歩兵第139連隊(姫路):槇林太夫大佐
- 歩兵第163連隊(松江):河野又四郎大佐
- 第110師団砲兵隊
- 第110師団工兵隊:願念仙一大尉
- 第110師団輜重隊:尾崎真三大尉
- 第110師団通信隊:野村豊大尉
- 第110師団第1野戦病院:清水三郎軍医少佐
- 第110師団第2野戦病院:島義仁軍医大尉
- 第110師団病馬廠:清水保寛獣医大尉
脚注
[編集]- ^ 4月6日、軍令陸甲第三十四號により第百十師團に編成改正が下令
- ^ 歩兵3個連隊制師団
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』209頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』263頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』265頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』295頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』315頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』394頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』423頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』426頁。
- ^ 「第44号 昭和20年3月1日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120934800
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』453頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。