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立花貞則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
立花貞則
立花貞則像(福厳寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 享保12年5月12日1727年6月30日
公式:享保10年5月12日(1725年6月22日
死没 延享3年7月17日1746年9月2日
改名 虎之進(幼名)、虎吉、貞則
戒名 等覚院殿廊融性営大居士
墓所 福岡県柳川市福厳寺
官位 従五位下丹後守伯耆守飛騨守従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
筑後柳河藩
氏族 立花氏
父母 立花貞俶:結(柴田氏)
兄弟 貞則鑑通、きせ、致傳致真、登代、みき、戸次通孝山名義徳矢島通経伝姫、まき、通堅、みつら
養子鑑通
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立花 貞則(たちばな さだのり)は、筑後国柳河藩の第6代藩主。第5代主・立花貞俶の次男。母は側室・涼体院(柴田喜右衛門の娘[1])。福岡藩黒田継高の娘と婚約。幼名は虎之進、虎吉。

生涯

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享保12年5月12日1727年6月30日)、柳河にて生まれた。なお、幕府には2年早い享保10年5月12日(1725年6月22日)で届けている。既に長兄孫次郎が享保8年(1723年)に早世し、また、享保18年(1733年)に父の正室である松子が死去したこともあってか、享保19年(1734年)に父から後継者として選ばれた。

元文4年(1739年)に江戸藩邸に入り、将軍徳川吉宗に初御目見をして、元文5年(1740年)に従五位下丹後守に任官した。元文年中に黒田継高の娘と婚約する。寛保2年(1742年)に伯耆守に改める。

延享元年(1744年)、父の死により跡を継ぎ、飛騨守に改める。延享2年(1745年)には従四位下に昇る。しかし延享3年7月17日1746年9月2日)、謎の暴漢集団に豊前国大里浜にて襲撃され、死去した。藩はその死去を秘密とし、遺体を生存のごとく柳河城に入城させた上で、その6日後の7月29日にその死去を公表の上で喪に服する[2]享年20(公式では22)。墓所は福厳寺。嗣子が無く、跡を弟の鑑通が継いだ。

官位履歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 時代的には遡るが、「柳河藩立花家分限帳」掲載の『延宝酉年1681年)知行取無足扶持方共』で無足組外・合力米七石二斗・大坂詰の藩士に『柴田喜右衛門』が見られる。
  2. ^ 寛政重修諸家譜ではこちらが採用されている。

参考文献

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  • 「三百藩藩主人名事典4」(新人物往来社
  • 『新訂寛政重修諸家譜・第2』(続群書類従刊行会、昭和39年)。
  • 橋本博「大武鑑・中巻」(名著刊行会)
  • 柳川市史編集委員会編集「柳川歴史資料集成第三集・柳河藩立花家分限帳」(柳川市・1998年
  • 「柳川市別冊・図説立花家記」(柳川市・柳川市史編集委員会編集・平成22年(2010年))