秋元富朝
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長15年(1610年) |
死没 | 明暦3年6月17日(1657年7月27日) |
改名 | 長丸(幼名)→富朝 |
別名 | 掃部(通称) |
戒名 | 清厳院殿雲山元伯大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺 |
官位 | 従五位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 甲斐谷村藩主 |
氏族 | 秋元氏 |
父母 | 父:秋元泰朝、母:大河内秀綱娘 |
兄弟 | 富朝、忠朝 |
妻 | 長子(有馬直純の娘)[1] |
子 |
娘(戸田忠昌正室) 養子:喬知 |
秋元 富朝(あきもと とみとも)は、江戸時代前期の大名。甲斐谷村藩の第2代藩主。館林藩秋元家3代。
生涯
[編集]総社に生まれる。寛永11年12月30日(1635年2月17日)、越中守に叙任される。寛永19年12月14日(1643年2月2日)、父秋元泰朝の死去により家督を継ぐ。富朝は富士山の雪代の出水によって流出する田畑を守るため、赤松数万本を植林した(諏訪森)。これは現在も国有林として伝えられており、富朝の唯一の遺業とも言われている。
明暦3年6月17日(1657年7月27日)、48歳で死去した。外孫の喬知が養子となって跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 長子 ー 有馬直純の娘
子女
- 戸田忠昌正室(長女)生母は長子(正室)
養子