石橋謹二
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石橋 謹二(いしばし きんじ[1]、旧姓・藤崎、1853年5月17日(嘉永6年4月10日)[2] - 1925年(大正14年)1月18日[3][4])は、日本の政治家(貴族院議員)[2][5][6]、千葉県多額納税者[2][5]、千葉県の大地主[2][7]、資産家[8]、銀行家(佐原興業銀行頭取)[1][2][6][7]、名望家[9]。従五位勲三等[10]。族籍は千葉県平民[2][6][7]。
人物
[編集]千葉県平民・藤崎三郎兵衛の二男[2][7]。石橋五郎左衛門の養子となり、1888年、家督を相続[2]。香取郡本大須賀村久井崎の富豪で名望があり[1]、農業を営む[11]。本大須賀村長をつとめる[10]。1911年、貴族院議員に互選され[2][5]、茶話会に所属して[10]、同年9月29日から[12]死去まで2期在任した[4][13]。
石橋は、佐原町に金融機関が不備なことを残念に思い、佐原興業銀行の創立委員長として奔走し、成立すると頭取に挙げられた[5]。石橋について『大正人名辞典』で「君資性温健、純朴なるを以て名望期せずして君に集り、而して県下有数の敏腕家たり」と紹介されている[5]。住所は千葉県香取郡本大須賀村久井崎[11](のち昭栄村、大栄町、現成田市)。
家族・親族
[編集]- 石橋家
- 養父・五郎左衛門[2][7][14]
- 養母・いね(1836年 - ?、千葉、藤崎浅右衛門の二女)[2][6]
- 妻・はる(1862年 - ?、千葉、小川勝愛の長女)[2][7]
- 養弟[7]
- 長男・敬五郎(1878年 - ?)[2]
- 二男・左五郎(1889年 - ?、医学士、分家)[7]
- 三男・保(1896年 - ?、分家)[7]
- 孫[7]
脚注
[編集]- ^ a b c 『房総人名辞書』い42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年2月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第4版』い138頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月18日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧 昭和14年12月増訂 丙』36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月21日閲覧。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』187頁。
- ^ a b c d e 『大正人名辞典』1755頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月18日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第5版』い188頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第6版』い164頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月18日閲覧。
- ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月18日閲覧。
- ^ 『帝国名望家大全』187頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月21日閲覧。
- ^ a b c 『議会制度七十年史 第1』180頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年11月30日閲覧。
- ^ a b 『千葉県紳士名鑑』65頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月25日閲覧。
- ^ 『貴族院要覧 昭和21年12月増訂 丙』21頁。
- ^ 『貴族院要覧 昭和21年12月増訂 丙』32頁。
- ^ 『日本現今人名辞典』い87頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月12日閲覧。
参考文献
[編集]- 吉野民司編『帝国名望家大全』吉野民司、1895年。
- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 五十嵐重郎編『房総人名辞書』千葉毎日新聞社、1909年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 松田卯太郎編『千葉県紳士名鑑』江東出版協会、1926年。
- 貴族院事務局編『貴族院要覧 昭和14年12月増訂 丙』貴族院事務局、1936年 - 1939年。
- 貴族院事務局編『貴族院要覧 昭和21年12月増訂 丙』貴族院事務局、1947年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。