田中勝之助
表示
田中勝之助 たなか かつのすけ | |
---|---|
| |
生年月日 | 1901年3月16日 |
出生地 |
日本 島根県那賀郡今市村 (現・島根県浜田市) |
没年月日 | 1945年8月6日(44歳没) |
死没地 | 日本 広島県広島市 |
出身校 |
鹿児島高等農林学校卒業 (現・鹿児島大学農学部) |
前職 | 酒造業 |
所属政党 | 翼賛政治会 |
選挙区 | 島根県第2選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1942年4月30日 - 1944年7月15日 |
今市村会議員 |
田中 勝之助(たなか かつのすけ、1901年(明治34年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月6日[1])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]島根県那賀郡今市村丸原(現浜田市旭町丸原)で、酒造業・田中勝聴の長男として生まれる[1][2]。島根県立浜田中学校を経て、1923年(大正12年)鹿児島高等農林学校を卒業[1][3]。その後、家業を継いだ[1][4]。今市村会議員を務めた[3]。日中戦争で応召して足かけ4年間従軍し、陸軍歩兵中尉に昇進した[3][4][5]。
1942年(昭和17年)3月、島根県会議員に当選し[1][4]、帝国在郷軍人会那賀郡連合会分会長も務めた[3]。同年4月、第21回衆議院議員総選挙に非推薦[6]で島根県第2区から出馬して当選し翼賛政治会に参加[1][3]。この間、拓務省委員、大東亜省委員、大政翼賛会中央協力会議員、島根県翼賛壮年団副団長、翼賛政治会政調大東亜委員を務めた[3][5]。1943年(昭和18年)帝国議会において戦時刑事特別法中改正法律案に反対し、これにより臨時召集を受け1944年(昭和19年)7月15日に議員を退職した[1][7]。広島第5師団参謀部付となり、8月6日の原爆投下により被爆死した[1][3]。
広島への原爆投下によって、元代議士の田中以外に現職の広島県選出代議士である古田喜三太・森田福市が被爆死しており、没後の9月4日、第88回帝国議会衆議院本会議はこの3名に弔辞を贈呈した[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 伊藤菊之輔編『島根県人名事典』伊藤菊之輔、1970年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年。