王駿 (明義侯)
王 駿(おう しゅん、? - 16年)は、中国の前漢時代末期から新代にかけての武将。字は君公。京兆尹長安県の人。
事跡
[編集]姓名 | 王駿 |
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時代 | 前漢時代 - 新代 |
生没年 | 生年不詳 - 16年(天鳳3年) |
字・別号 | 君公 |
出身地 | 京兆尹長安県 |
職官 | 執金吾、歩兵将軍、強弩将軍、中郎将〔前漢〕
※就任順は不明 |
爵位・号等 | 明義侯〔前漢〕 |
陣営・所属等 | 平帝→孺子嬰→王莽 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
新の王莽配下の将軍である。
元始3年(3年)、執金吾になり、元始5年(5年)歩兵将軍に移った。
居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起する。明義侯となっていた王駿は、王莽から強弩将軍に任命され、奮武将軍孫建・虎牙将軍王邑ら他の6人の将軍とともに翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅する。しかし、王駿は軍功をあげられなかったため、居摂3年(8年)正月に将軍職から解任されてしまった。
一方で王駿は、前漢末期から匈奴との外交使節の任に携わっていた。時期は不明だが、前漢末に中郎将として王昌とともに使節団の長となり、匈奴単于の下に派遣されている。王莽が新を建国した後の始建国元年(9年)、五威将となった王駿は、再び使節団の長となる。そして新の使節として印璽、金品等を匈奴単于に下賜した。しかし、この時の印璽の刻印は、王莽により漢の時代から改められていたため、後に匈奴の新からの離反を招いてしまう。
始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴単于の称号を降奴服于と改める。さらに立国将軍孫建に12人の将軍を率いさせ、五路からこれを討伐させた。この時、王駿も奮武将軍として12人の将軍の1人となっており、定胡将軍王晏とともに張掖郡から出撃している。
天鳳3年(16年)、匈奴を討伐するため、王駿と西域都護李崇は、西域へと出撃した。この時、西域諸国は王駿らの軍を支援したが、そのうちの一国である焉耆国は偽って降伏し、王駿らを攻撃しようと備えていた。そのため王駿らは、莎車国・亀茲国などの兵7千人を率いて焉耆国を攻撃した。しかし、王駿指揮下にあった姑墨国・尉犁国・危須国の兵が反逆したため、王駿は敗北して戦死した。
参考文献
[編集]- 『漢書』巻19下表第七百官公卿表下 巻94下列伝64下匈奴伝下 巻96上列伝66上・下西域伝上・下 巻99中列伝69中王莽伝中 巻84列伝54付・翟義伝