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2006年12月19日 (火) 05:39時点における版
盧綰(ろ わん、紀元前256年若しくは紀元前247年 - 紀元前194年)は、秦末から前漢初期にかけての武将、政治家。前漢初期の燕王。
盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また、盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、彼等の息子である二人も親友として育つ。劉邦が罪を犯して逃亡した際も、盧綰は劉邦と行動をともにしたという。二人の親友付き合いは、劉邦が皇帝になってからも続き、劉邦の臣下では唯一盧綰のみが、劉邦の寝室に自由に出入りすることが許されたという。
劉邦が反秦の挙兵をした際も、盧綰はこれに従い、各地を転戦。楚漢戦争の時には、彭越、劉賈とともに、楚軍の補給基地を襲撃し、これに成功している。
紀元前202年、劉邦が帝位について間もなく、燕王臧荼が反乱を起こして敗死すると、当時、太尉(軍事担当宰相)だった盧綰が後任の燕王に封建された。しかし、紀元前195年、英布討伐の際の負傷が原因で体調を崩している劉邦に盧綰が謀反を企てているとの告発が行われ、盧綰はこれまでの『皇帝陛下の第一の親友』から『謀反人』になってしまう。しかし、盧綰は、
「陛下は、病気のせいで気が動転されているだけだ。本復されたら、いの一番に詫びを入れれば、直ぐに許されるだろう。」
と、気にかけることはなかった。しかし、この年に劉邦が死に、劉盈(恵帝)が即位し、これまで諸侯王廃絶政策に大きな役割を果たしてきた呂雉が皇太后として後見することを知ると、もはやこれまでと、匈奴の元へ亡命する。匈奴の冒頓単于は盧綰を歓迎し、『東胡の盧王』に封建するも、間もなく盧綰は病死した。