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'''ABDA司令部'''(ABDAしれいぶ, Australian-British-Dutch-American (ABDA) Command, American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)あるいは'''米英蘭豪司令部'''(べいえいらんごうしれいぶ)とは、[[太平洋戦争]]初期において、[[オーストラリア]]('''A'''ustralia)・[[イギリス]]('''B'''ritish)・[[オランダ]]('''D'''utch)・[[アメカ合衆国]]('''A'''merica)が[[東南アジア]]での対[[日本]]軍事作戦指揮のため設置した多国籍[[コマンド (部隊編成)|コマンド]]である。兵力不足に加えて各国の戦略も統一できず、日本軍の進撃を有効に阻止できなかった。
'''ABDA司令部'''(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, '''ABDACOM''')あるいは'''米英蘭豪司令部'''(べいえいらんごうしれいぶ)とは、[[太平洋戦争]]初期において、[[アメリカ合衆国]]('''A'''merica)・[[イギリス]]('''B'''ritish)・[[オランダ]]('''D'''utch)・[[オーストラ]]('''A'''ustralia)が[[東南アジア]]での対[[日本]]軍事作戦指揮のため設置した多国籍[[コマンド (部隊編成)|コマンド]]である。兵力不足に加えて各国の戦略も統一できず、日本軍の進撃を有効に阻止できなかった。


== 設置の経緯 ==
== 沿革 ==
太平洋戦争の開戦前、[[アメリカ軍]]・[[イギリス軍]]・[[オランダ軍]]・[[オーストラリア軍]]のABDA四か国及び[[ニュージーランド軍]]の士官らは、日本軍を仮想敵とした統一戦略を秘密裏に協議していたが、アメリカの[[フランクリン・ルーズベルト]]政権が事前に戦略的義務を負うことを避けたため、具体的な統合防衛戦略の合意には至っていなかった<ref name="ファレル56">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、56頁。</ref>。
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太平洋戦争緒戦における日本軍の[[蘭印作戦]]に対抗するために、アメリカ軍・イギリス軍・オランダ軍・オーストラリア軍は'''ABDA司令部'''を設置し、ジャワやオーストラリアの防衛のため域内の陸軍・空軍部隊を統合した。[[トーマス・C・ハート]](米海軍大将・アジア艦隊司令長官)は[[カレル・ドールマン]]少将を司令長官とするABDA艦隊を編成した<ref>[[#連合国艦隊壊滅す]]p.141</ref>。
太平洋戦争の勃発直後の1941年12月にアメリカとイギリスの間で開かれた[[アルカディア会談]]において、日本軍の[[南方作戦]]に対抗するための連合軍統一司令部の設置が合意された<ref name="ファレル56" />。同会談の中で[[アメリカ陸軍参謀総長]]の[[ジョージ・マーシャル]]が東南アジア防衛のための統合戦域司令部の設置を正式に提案し<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、58頁。</ref>、イギリスも同意した。重要な決定はアメリカとイギリスの間で行うものとされたが、オランダとオーストラリアは不満を持った<ref name="ファレル61">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、61頁。</ref>。

1941年1月15日にABDA司令部が正式に指揮を開始し、司令部は[[オランダ領東インド]]の中心である[[ジャワ島]]に置かれた。総司令官には、イギリスの[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]陸軍大将が就任し、副司令官はアメリカ軍から選出することとされた。総司令官の権限は、ABDA戦域内のABDA四か国軍の戦略的作戦行動の調整にとどまった<ref name="ファレル61" />。ABDA海軍部隊の司令官には[[トーマス・C・ハート]](米海軍大将・アジア艦隊司令長官)が就任し、オランダの[[カレル・ドールマン]]少将を指揮官とするABDA艦隊を編成した<ref>[[#連合国艦隊壊滅す]]p.141</ref>。

ABDA司令部の担任範囲は、西は[[ビルマ]]から、東はオーストラリア北部に及んだ。しかし、1942年2月15日に防衛の要点だった[[シンガポール]]を喪失し、同年2月21日にはビルマの担当をインド駐留軍に譲った<ref>[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、73頁。</ref>。連合軍はこれ以上の消耗を抑えて再編成すべきとの判断に達し、1942年2月25日にABDA司令部は正式に解散した<ref name="ファレル76">[[#ファレル|ファレル(2010年)]]、76頁。</ref>。総司令官であったウェーヴェル大将はインドへ転任して[[ビルマの戦い]]を指揮し、残されたオランダ領東インド周辺の連合国軍部隊の指揮はオランダ軍に委ねられた<ref name="ファレル76" />。


== 組織と権限 ==
== 作戦経過 ==
== 作戦経過 ==
[[ファイル:ABDA Japanese attacks.jpg|thumb|350px|right|ABDA戦域への日本軍の侵攻経過]]
以下の戦いに参加した。
ABDA司令部の基本戦略は、シンガポールを中心として[[スマトラ島]]からジャワ島に連なる防衛線「マレー防壁」を保持しようとするものであった。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、司令官に内定したウェーヴェルに対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた<ref name="ファレル61" />。しかし、ABDA司令部は日本軍の進撃を阻止することができず、1942年2月15日にマレー防壁の要点であるシンガポールが陥落。その後は解散までの間、オランダ領東インドなどの防衛に努めた。

ような戦いに参加した。
*[[ジャワ沖海戦]]
*[[ジャワ沖海戦]]
*[[バリ島沖海戦]]
*[[バリ島沖海戦]]

なお、以下の戦闘はABDA司令部の解散後に、東南アジア地域の連合国軍が共同作戦を行ったものである。
*[[スラバヤ沖海戦]]
*[[スラバヤ沖海戦]]
*[[バタビア沖海戦]]
*[[バタビア沖海戦]]

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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・ファレル|date=2010 |chapter=太平洋戦争初期における連合国側の戦略-東南アジア戦線 |chapterurl=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2009/06.pdf |title=太平洋戦争とその戦略―平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書 |url=http://www.nids.go.jp/event/forum/j2009.html |publisher=防衛省防衛研究所 |ref=ファレル}}
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・ファレル|date=2010 |chapter=太平洋戦争初期における連合国側の戦略-東南アジア戦線 |chapterurl=http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2009/06.pdf |title=太平洋戦争とその戦略―平成21年度戦争史研究国際フォーラム報告書 |url=http://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/j2009.html |publisher=防衛省防衛研究所 |ref=ファレル}}
* {{Cite book|last=Matloff |first=Maurice |coauthors=Snell, Edwin M. |date=1990 |title=Strategic Planning for Coalition Warfare 1941-1942 |url=http://www.history.army.mil/books/wwii/SP1941-42/ |publisher=Center of Military History United States Army |location=Washington, D. C. |ref=Matloff}}
* {{Cite book|last=Matloff |first=Maurice |coauthors=Snell, Edwin M. |date=1990 |title=Strategic Planning for Coalition Warfare 1941-1942 |url=http://www.history.army.mil/books/wwii/SP1941-42/ |publisher=Center of Military History United States Army |location=Washington, D. C. |ref=Matloff}}


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2022年1月18日 (火) 19:12時点における版

ABDA司令部の担当戦域

ABDA司令部(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部(べいえいらんごうしれいぶ)とは、太平洋戦争初期において、アメリカ合衆国America)・イギリスBritish)・オランダDutch)・オーストラリアAustralia)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンドである。兵力不足に加えて各国の戦略も統一できず、日本軍の進撃を有効に阻止できなかった。

沿革

太平洋戦争の開戦前、アメリカ軍イギリス軍オランダ軍オーストラリア軍のABDA四か国及びニュージーランド軍の士官らは、日本軍を仮想敵とした統一戦略を秘密裏に協議していたが、アメリカのフランクリン・ルーズベルト政権が事前に戦略的義務を負うことを避けたため、具体的な統合防衛戦略の合意には至っていなかった[1]

太平洋戦争の勃発直後の1941年12月にアメリカとイギリスの間で開かれたアルカディア会談において、日本軍の南方作戦に対抗するための連合軍統一司令部の設置が合意された[1]。同会談の中でアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルが東南アジア防衛のための統合戦域司令部の設置を正式に提案し[2]、イギリスも同意した。重要な決定はアメリカとイギリスの間で行うものとされたが、オランダとオーストラリアは不満を持った[3]

1941年1月15日にABDA司令部が正式に指揮を開始し、司令部はオランダ領東インドの中心であるジャワ島に置かれた。総司令官には、イギリスのアーチボルド・ウェーヴェル陸軍大将が就任し、副司令官はアメリカ軍から選出することとされた。総司令官の権限は、ABDA戦域内のABDA四か国軍の戦略的作戦行動の調整にとどまった[3]。ABDA海軍部隊の司令官にはトーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)が就任し、オランダのカレル・ドールマン少将を指揮官とするABDA艦隊を編成した[4]

ABDA司令部の担任範囲は、西はビルマから、東はオーストラリア北部に及んだ。しかし、1942年2月15日に防衛の要点だったシンガポールを喪失し、同年2月21日にはビルマの担当をインド駐留軍に譲った[5]。連合軍はこれ以上の消耗を抑えて再編成すべきとの判断に達し、1942年2月25日にABDA司令部は正式に解散した[6]。総司令官であったウェーヴェル大将はインドへ転任してビルマの戦いを指揮し、残されたオランダ領東インド周辺の連合国軍部隊の指揮はオランダ軍に委ねられた[6]

作戦経過

ABDA戦域への日本軍の侵攻経過

ABDA司令部の基本戦略は、シンガポールを中心としてスマトラ島からジャワ島に連なる防衛線「マレー防壁」を保持しようとするものであった。ABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、司令官に内定したウェーヴェルに対して、重要地点を保持するのみならず、なるべく早く攻勢に出るよう指示が与えられていた[3]。しかし、ABDA司令部は日本軍の進撃を阻止することができず、1942年2月15日にマレー防壁の要点であるシンガポールが陥落。その後は解散までの間、オランダ領東インドなどの防衛に努めた。

次のような戦いに参加した。

なお、以下の戦闘はABDA司令部の解散後に、東南アジア地域の連合国軍が共同作戦を行ったものである。

編制

脚注

参考文献