「下侍塚古墳」の版間の差分
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那須地方にある6基の前方後方墳のなかで当古墳の南南東約700メートルにある[[上侍塚古墳]]に次ぐ大きさであり、江戸時代に行われた保全整備により現在でもその原形をとどめ「日本で一番美しい古墳」<ref>[[森浩一]]著『古墳の発掘』[[中公新書]](65)([[中央公論社]] [[1965年]]([[昭和]]40年)4月発行))より</ref>と言われている。前方部に対して後方部が5メートルほど高いが、後方部が高いというのは古墳の初期の形に多く西暦400年ごろ造られたと考えられている。周辺には侍塚古墳群があり本墳の他に10基の古墳があったが、戦後の開田などにより現存するのは8基である。 |
那須地方にある6基の前方後方墳のなかで当古墳の南南東約700メートルにある[[上侍塚古墳]]に次ぐ大きさであり、江戸時代に行われた保全整備により現在でもその原形をとどめ「日本で一番美しい古墳」<ref>[[森浩一]]著『古墳の発掘』[[中公新書]](65)([[中央公論社]] [[1965年]]([[昭和]]40年)4月発行))より</ref>と言われている。{{要出典範囲|date=2021年9月13日 (月) 13:06 (UTC)|前方部に対して後方部が5メートルほど高いが、後方部が高いというのは古墳の初期の形に多く西暦400年ごろ造られたと考えられている}}。周辺には侍塚古墳群があり本墳の他に10基の古墳があったが、戦後の開田などにより現存するのは8基である。 |
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== 歴史 == |
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2021年9月13日 (月) 13:06時点における版
下侍塚古墳 | |
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所在地 | 栃木県大田原市湯津上 |
位置 | 北緯36度48分47.51秒 東経140度7分22.17秒 / 北緯36.8131972度 東経140.1228250度 |
形状 | 前方後方墳 |
規模 |
全長84m 後方部 幅48m 高さ9.4m 前方部 幅36m 高さ5m |
出土品 | 鏡・鎧片・鉄刀片・土師器壷・同高坏(たかつき)・大刀柄頭(たちつかがしら) など |
築造時期 | 5世紀始めころと推定 |
史跡 | 上侍塚古墳と共に侍塚古墳として国の史跡(1951年6月9日指定) |
特記事項 | 侍塚古墳群のひとつ |
下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)は、栃木県大田原市湯津上の那珂川右岸河岸段丘上に位置する前方後方墳。
概要
那須地方にある6基の前方後方墳のなかで当古墳の南南東約700メートルにある上侍塚古墳に次ぐ大きさであり、江戸時代に行われた保全整備により現在でもその原形をとどめ「日本で一番美しい古墳」[1]と言われている。前方部に対して後方部が5メートルほど高いが、後方部が高いというのは古墳の初期の形に多く西暦400年ごろ造られたと考えられている[要出典]。周辺には侍塚古墳群があり本墳の他に10基の古墳があったが、戦後の開田などにより現存するのは8基である。
歴史
- 1692年(元禄5年) 10数年前の1676年(延宝4年)に発見された那須国造碑との関連を調べるために徳川光圀の命により小口村(那珂川町小口)の庄屋・大金重貞らが上侍塚古墳とともに発掘調査したが、関連を裏付ける墓誌などは発見できなかった。出土品は絵図に記録後松板製の箱に収め埋め戻された。墳丘の崩落を防ぐために松を植樹し保全整備が行われたことは、日本考古学史上特筆される[2]。
- 1951年(昭和26年)6月9日 上侍塚古墳とともに侍塚古墳として国の史跡指定を受けた[3]。
- 1975年(昭和50年)湯津上村教育委員会による発掘調査が行われ、古墳の規模や周濠の形状を調査し、葺石や墳丘から落下したと考えられる土師器壺などを検出した[2]。
周辺
国道294号を挟んで向側には駐車場、トイレが整備され、大田原市歴史民俗資料館、栃木県立なす風土記の丘資料館湯津上館が南へ約200メートルの至近距離にある。また北北西方向約1キロメートルに徳川光圀の命により建立され那須国造碑(現・国宝)を祀った笠石神社が位置する。
また本墳の周囲には遊歩道が整備されており、侍塚古墳群の1号墳(前方後円墳、全長40メートル)、2号墳 - 7号墳(円墳)、8号墳(方墳)を周遊できる。